B勉三翁と私の出会い

◎とことん健康に生きて、すこし臥せって、あっさり死ぬ=清見潟大学

◎ひとは、少し難しい課題に立ち向かうことで、高齢化しても脳はいつまでも
 発達する。


 まず私が、勉三研究をなぜするようになったかを話します。

  私の幼年期は、泣き虫で言葉より涙が先に出ました。思い起こすと、小学校4年生
 ぐらいになると「綴り方」が上手だと褒められるようになりました。言葉が遅い、上
 手に言えないということは、文学の才能があるともいえるのかも知れません。中学時
 代、賀茂郡下の文集「あすなろう」に詩が掲載され、文学少年となりました。その後
 こつこつ詩を書きためたこともありました。

  この文学好きは、その後の人生に大いに役立ちました。現実の自分をもうひとりの
 自分が客観的眺めることができ、軸足を必要以上にブレらすことなく過ごすことがで
 きたと思います。

  強いていえば、劣等感克服法として1年1つ、何かに挑戦しました。仕事は残業の
 多い印刷業でしたが、中学出ですから、階段を一段一段昇る要領です。そこで文学雑
 誌に
投稿したり、NHK漫才台本募集などもしました。昭和40年ごろから県労働文
 学祭小説部門入選の常連となり、昭和45年度には県芸術祭戯曲部門に「開墾の始め
 は豚とひとつ鍋」が佳作入選したのです。

  それを契機として北海道へ手紙が渡り、勉三研究第一人者「萩原実先生」と交流す
 るようになりました。先生の出版のお手伝いをしたり、先生からは貴重な教えをいた
 だきました。先生は数年前亡くなりましたが、30年近いお付き合いでした。でも、
 今となると「あれも聞いておきたかった、これも聞いておきたかった」と思うことが
 多すぎます。

  私は、実は勉三翁肉書きの日記に触れたことがありません。たぶん見ても読み下す
 ことは出来ないでしょう。出版された日記は、現在は3冊、明治43年(途中抜けて
 いる)までです。松山善三作品に「依田勉三の生涯」がありますが、私にはこの作
 品に違和感を感じてなりませんでした。あれを読むと「荒くれ」としか写りません。
 しかし、私のイメージは「憂国文士の開拓」なのです。

  そこで対抗する意味でも「勉三一代記」をライフワークにしようと思い立ちました。
 でも、日記は開拓の半分で、これではダメだと一時は諦めました。そこで先生の遺族
 にお願いして「晩成合資会社営業報告書」を借り受けました。

  そして日記や営業報告書を丸ごと書き取り、他からも写してルーズリーフの「編年
 綴り」にし、再び原稿用紙に書きますと2,600枚になりました。合わせると5千
 枚以上となります。また、それをワープロのキーボードを打ちます。その間、座るこ
 とが出来ないほどの腰痛に見舞われ、外注しようかと思ったこともありました。晴れ
 た日に家に篭もることに罪悪感をもつ人間で、半日百姓をしていますので、校正など
 してHP発信するまでに数年を費したでしょうか。

  恩師須田昌平先生は「見るだけで覚えられるのは天才で、普通人は何度も書き写し
 て覚えられる」と言っていましたから、その実証が出来たと思っています。まさにそ
 の通りで、一文字に凝縮された感覚がよみがえってました。

  特に勉三翁の日記は「忘備録」としての意味もあり、会話した速記録風のものもあ
 ります。そして後の紛争後とに備えた記録とも受け取られます。絶えず懐中手帳(メ
 モ用紙)を用意し、矢立などを出して書き付けていました。それを改めて「日記帳」
 に記帳していました。また、病気や多忙の日も欠かさずしかも長文を記帳するあたり
 その精神力には脱帽です。

 


@自己紹介にかえて AーA.伊豆人の性質 AーB.松崎町が多くの偉人を出すのは?
B勉三って、どんなひと
  Bー私との出合い
  Bー
A.略歴年表  

  BーB.生い立ち
  BーC.十勝開拓への使命感
BーD.苦難の道
BーE.水田所の宴(晩成社は成功者だった)
C 結論として
    皆さんへのメッセージ
D付録、松崎町・下田北高にある関係写真 渡辺勝日記 BーE.こぼれ話序文   こぼれ話6話 FG
   表紙に戻る  勉三一代記「風吹け、波たて」
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