B 依田勉三って、どんなひと
ライフワーク
=私と勉三翁との出会い=
A.昭和45年度県芸術祭戯曲部門「開墾の始めは豚と一つ鍋」が佳作入選
B.前記により勉三研究第一人者・萩原実先生と知り合い、交流して資料を得る
C.「読んで覚えられるは天才、何回も書いて覚えろ」須田昌平先生。「風吹け、波たて」2,600枚
A.略歴年表 慶応義塾入退学、ワッデル塾入門
B.生い立ち 心身とも弱い劣等感のひと? 身長155aで小柄。
◎嘉永6年黒船到来の年生まれ。◎父母、師三余を少年期に亡くす。7歳上の兄が親代わり。
◎教育=三余塾、沼津説(共慣義塾、沼津は兵学校など教育水準が高い)。謹申学舎(元会津藩家
老・西郷頼母塾長)。慶應義塾(福沢諭吉の感化)。英人牧師・ワッデル塾(語学修業)。報徳
思想普及の地(二宮尊徳)
C.十勝開拓への使命感 開拓に成功して所有地となる方式、有言実行のひと、研究熱心、
◎諭吉の食糧欠乏論、ケプロン報文(黒田清隆がアメリカより招請)。報徳思想を軸とする。
◎3幹部(勉三・渡辺勝・鈴木銃太郎)。鈴木親長・渡辺カネ・弟文三郎
◎十勝有望論に出合う。田内・内田=天草民200戸入植説。
◎株主・移民募集
◎帯広・農業オンリーでなく、生花苗、大津、キスケ(日高)、函館、当別(函館対岸)、七重畜産且ミ長。
◎漁業、畜産(豚・牛・馬=軍馬・競馬、酪農=バター、ミルク、)、林業(植林・椎茸・木炭)、澱粉、製材、
麻植栽・製糸工場、金山、炭坑、屠殺・精肉販売業=函館、缶詰製造など多岐。副業として藺草生産と
編み笠蓑・畳表)
◎東京での搾乳・缶詰、伊豆大島へ研究者派遣、自ら旅途の視察は勿論、札幌・岩手・長野の山中
まで足を運んで情報を得る。帯広測候所に土地提供、のち農事試験場となる。
◎殖産、教育、道路、神社、道路、晩年=十勝港(生花苗沼の開削)に尽力。
D.苦難の道 株主、移民団募集、帯広までの行程、開墾の始めは豚と一つ鍋、
E.水田所の宴 晩成社は事業的大成功者?
◎4農場一括売却が帯広・売買(うりかり)だけとなり、途別・生花苗2農場は破約される。
◎2年後の地価暴騰(10倍、晩成社に限れば100倍)
F.・勉三語録・こぼれ話 いくつかの苦労話、エピソード、
◎ふたりの息子の幼死 ◎リクとの離婚、サヨとの再婚 ◎サヨの看病死、リクとの再会