わがライフワーク

憂国の奇才・小沢一仙研究



   五、偽勅使事件

      A、私的(松本)裁判

 この偽勅使事件を裁判形式で、私なりに解いてみよう。罪状認否では「有罪」を認め

ざるを得ない。一仙も自らを京都「脱走」としているのである。

 だが、その行動計画は、朝廷内部に浸透していた事実がある。いわゆる「勅宣」をも

らえる手筈になっていたのである。この内容については後に述べる。三条実美などを通

じ、今日か明日か、正式な命令が降りるのを待っていたことが、史談会速記録からも伺

える。

 また、信甲鎭撫の挙兵最中にも高松保実から慶応四年(一八六八)二月

 「皇太后宮少進藤原朝臣実村今般信甲鎭撫真忠之軍功不堪感猶以後一入有志共無

離散一致尽力可顕精功候、近々綸旨御旗等取計者也 右之趣議定総裁中山前大納

言、三条大納言内命候 慶応四年二月 信甲二国有志中 藤原保実」

と、途中においても「勅宣」をもらえる方向にあった。そしてまた、隊が偽勅使と断定され

て京都へ帰る際も、岩倉具定を総督とする東山道総督府に、二月二十四日、岡谷繁実

は中津川辺りでこれまでの信州鎭撫を引き継ぎ、誤解を解いたと言っている。京都に入

る時は青山峰之助の兵に守られていたが、青山らが「凱陣」といい、「軍装にするが宜い

と言って大津より旗馬印を立てて、隊七分は馬上にて錦のひたたれにて凱陣致しました」

とある。これらからも深く糾弾されていなかったことが分かる。しかし、帰着した直後「令

を犯し抜掛けせし罪を請い、謹慎しました」とある。それに高松殿が糾弾されたのは、自

らが「横浜掃攘」の演説をしたのが主因だと言っていることである。

 では、何故に勅宣を持たず、京都を脱走したのだろうか。大政奉還がなされたとは言

え、具体策はなく、徳川慶喜の江戸帰還、戊辰戦争の勃発など、世情は混乱の極めてい

た。軍備の近代化は新政府軍が勝るとはいえ、軍資金、組織、人員などは幕府軍が有利

な現状にあった。議論などまかり通らぬ暗殺が横行する時代が背景にある。謀略の坩堝

なのだ。

 時間をおけば、慶喜は体制を整えて再び京都へ攻め入って来る。甲府は幕府軍が江戸

から攻める際、これを抑える要衝の地である。直ぐさま行動を起こさなければ、庶民まで

戦火に包まれて大変なことになるとしてが、脱走の動機である。甲府城を逸早く新政府軍

の手にしなければならないのが目的であった。

 次に最大な侮辱「梟首」の刑に何故なったかである。後に偽勅使条目について検討

するが、私のような一仙の弁護人でさえ「甲州一国別制」などは言語道断と言うより 他は

ない。これが新政府になった時、またしても打首の刑さえも求刑がされると思うのである。

 でも、先に述べた朝廷内部に浸透した案でもあるし、後で述べる言上書での弁明と、

これは西郷隆盛らのいう「民心収攬」の道具であったと思うのである。それにこの条目

には「年貢半減令」まで含まれている。そのことからも、西郷のつながりが知れよう。脱

走について先にも触れたが、この「年貢半減令」を持って進む隊に、相楽総三の「赤報

隊」があった。これは西郷の直命のような隊である。一仙らの隊「高松殿」の中には、

相楽と通じる者があったようで、相楽らが年貢半減令を持って進むのは、依怙贔屓とし

て写ったであろう。年貢半減令を持って進む隊は、ことごとく処刑されたように、三井な

ど豪商から軍資金を調達したからみから、この年貢半減令は反故にせざるを得なかっ

たのである。その犠牲になったこともその原因と言える。

 そして、甲州に入って三千人の大隊ともなれば、偽勅使と断定されれば「騒乱罪」は

適用されようし、身分の軽い宮大工分際ということで、彼は処刑されたのだと思う。

 もし、西郷、大久保、岩倉らに抗弁できるなら、長州・薩摩の「密勅」は、本当の「勅

書」なのかと問いたい。彼らもまた、偽勅使ではなかったのか。

 高松実村や岡谷繁実などは謹慎で済み、後に維新の功労者となっていることからみ

て、一仙だけ(山形屋重兵衛だが、本隊の人間ではない)が、処刑されたことは理不尽

である。私は憤りを覚えるのである。名誉回復に力及ばぬながら叫びたい心境である。

 

       隊 員 名 簿

  高松殿家来姓名表         (本 名)   (出身地)

    小 沢 雅楽助 〇後見人   小沢 一仙  伊豆松崎

    斯 波 弾 正 〇家老職   岡野 繁実  上州館林

    増 田 要 人 〇御側用人  

    真 田 求 馬 〇無席翰墨 

    守 屋 靱 負 〇御側近習  

    伊 東 新 吾 〇〃

    小森三右衛門 〇〃 助

    桜 井 三 郎  近 習

    大 草 三之助  〃

    門 倉 図 書 〇目 付  門倉惣右衛門  下  総  

    木 村 兵 庫 〇〃     木村市三郎   

    高 原 左衛門 〇勘 定  丸茂杢左衛門  甲  州

    小 沢 金 吾 〇〃     石田平太郎    伊豆松崎

    常 磐    勇 〇周 旋  

    今 村 民 部  中小姓

    菅 村 民 助  徒 士  

    小 坂 作次郎 〇小荷駄

    斉 藤 演五郎  〃 助下役

         〇印が、京都脱走時の実村を含めた十四人。

 この十四人で京都を発った高松殿が、甲州では三千人となる。そのためには相当な事

前工作がなされたと考えるべきであろう。信州では平田門の国学者、甲州では神主の三

カ所が多かった。  

  

      B、背  景 

 一仙の生涯を考える時、偽勅使事件に重きをおく人が多い。私は、琵琶湖運河を挙げ

るのだが……。

 特に山梨県側では、騙されたという印象が強く、この偽勅使事件から離れられないよ

うである。この隊を高松殿と呼ぶのだが、京都脱走時一四人足らずのものが、甲府到達

の頃は三千人にもの大隊となっているのである。新しい時代への期待が顕著に現れてい

るといえよう。となれば献金や食料、物資の供出、人足など多くの負担をしたことだろう。

それが偽勅使と断定され、京都に引き戻されるとなれば、これに石つぶて、悪口を浴びせ

たことも頷けることである。 

 この時代、甲州は幕領として切り刻まれ、勤番侍や旗本、代官に管理されて一国の形

をなしていなかった。他国のものに弾圧されれば、武田信玄の偉大さが脳裏から離れら

れないのも無理からぬことである。武田政治を復古させようと住民は考え続けていたので

あろう。

 一仙の偽勅使事件の根本、偽勅条目と呼ばれるものを見ても武田政治の復活が主眼

と なっていることを、山梨県側は認め、伊豆出身の一仙としてではなく、甲州武神主・武

藤外記に厄介になっていたことを思い起こしてもらいたい。単に金欲しさや面白半分の

行動であるなら、小沢と名乗らないだろうし、雅楽助などの名は使うはずはない。この

「雅楽」は、桧峰神社で使われる外記などと同じ世襲名なのである。

 話を少し戻そう。一仙が琵琶湖を離れ京都へ出たのは慶応三年十月頃のようである。

京都はまさに土佐藩の大政奉還建白、薩長への討幕の密勅、暗殺の横行など風雲急を告

げていた。

 偽勅使事件の構想は、一仙単独説が多い。しかし、岡谷繁実と武藤外記一族を忘れては

ならない。

 十一月二日の岡谷の日記に「大原重徳、高松保実に面会。小沢一仙と会う」とある。

この後となるが、一仙の名で高松卿に出した「甲斐国尽忠次第建白」の日付は十二月二

十九日では、甲州武神主の肩書である。十一月高松や岡谷に会った後、一度は甲州に戻

って武藤などと相談の故と思われる。

 岡谷は、館林藩の重要人物で、その頃は脱藩はしていたが中老格であった。その履歴を

みても高島砲術の習得、攘夷策の建言と勅使の東上奉上、山陵修復、征長回避の周旋、

江戸遷都論、寒香園経営、正倉院への天皇案内、修史館で史料編さん、金沢文庫再興、

史談会幹事や、「名将言行録」の著書などがある。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛にも

通じたと伝えられる。また、館林藩主・秋元志朝は、周防徳山藩主・毛利家からの養子で

あることから、長州には深く関係した人物である。それに甲州にも館林藩の飛地もあった

ことも、伏線としてあろう。

 一方、武藤外記も、母方の祖父に栄名井聡翁という人物がいる。明治維新の礎になっ

たいわれる山県大弐事件は、およそその百年ほど前に起きたのだが、それに連座して追

放処分になっている。和歌の道に秀れ、全国各地に門下生がいた。岩倉具選とは意気投

合した仲だったという。岩倉具視は具選の末裔である。「仏敵先生」とも 呼ばれ、神教を強

烈に布教した。天皇家が天照大明神を祖とすることから、神主を集めて勤王の道をつくっ

た人、即ち維新の礎の所以である。

 桧峰神社のある黒駒は、屋根を葺く桧皮の産地で、経済的にも潤っていた土地とも聞

く。先にも触れたが、鎌倉と甲府、駿河と甲府を結ぶ主要幹線道の道筋にあった。甲州

に於ける名門神社である。だから幕府にも朝廷にも顔がきいていた。北辰一刀流の千葉

周作を叔父にもつ千葉十太郎は、外記に兄事したほどである。

 慶応三年八月十四日、徳川慶喜の参謀の原市之進が暗殺され、その後の政治情勢に

重要な影響を与えた事件があった。その下手人は鈴木恒太郎、鈴木豊次郎、依田雄太

郎である。武藤の子・藤太は、その壮行会を、武藤屋敷などでその年の二月催している

のである。藤太の日記に「幕臣・鈴木恒太郎庸ら京都にのぼりて原市之進を斬奸せんと

思い立ける時に、別れの心を江戸堀之内という寺のほとりにて書き給わりけるは、《武藤

君に別れの惜しみて、庸中(鈴木恒太郎)=別れてはまた逢うこともありそ海のよせくる

波にぬるる袖かな。同じく為尋(依田雄太郎)=別れて又逢うこともありなしや薄氷を渡る

我身なりせば》とあり、武藤家と関係があることを注視したい。

 下手人らは幕府の旗本なのだが、兵庫開港に踏み切った原の行動を怒って暗殺に及ん

だという。これを応援したことと偽勅使事件との思想的つながりについて今後の課題である。

また、相楽総三などと江戸薩摩邸で行動した上田修理が慶応二年十二月中旬、八王子方

面からから甲州へ目指すが、この手引きもしている多感な男で、維新の黒幕的存 在である。

 一仙は、武藤家厄介とも称し、外記の長男・藤太の弟分として扱われた。先の「甲斐国尽

忠次第建白」は、「朝廷御近辺の御警衛は勿論、後日攘夷の先鋒仰せられ候はば決死の

覚悟で御奉公仕るべく候、これは尽忠の二字一心のほかあるまじき候」と述べている。

 この建白は、朝廷内に保実を通して入っていったのである。その返書ともいえるものが二

つある。

      条  々(a)

一、普天之率土之浜山海及び地中の廃物 を以御有益者勿論 勤王有志之者可為 人撰

  之事

一、京地へ金銀座御取建に付本締金主方 可有人撰之事

一、金銀銅鉛水晶等之山々内見探索之節 其支配地頭へ一応申置見分可致候事

一、新田開発之地深山幽谷之廃木切出し 且運送無差仕往来川筋方可心得事

一、金銀銭座惣而廃物有益筋掛り入用出 金方之儀者十ケ年賦元利成崩之仕法、別書之

  通り為心得出金可致候 定約相調候はば当殿へ為申立当殿より後差図伺済之上 朝

  廷御上納所へ当人直に差出候事         (中略)

   右者その方建言の趣旨 朝廷へ申上候処その節内々探索致し不苦段今般以御内命

  御筋より被申聞候間 右条々の趣深相心得諸向探索可致候 尤領主地頭者勿論下人

  に至る迄順道を取斗い不当の儀無之様屹度御用向丹誠可相励候事

    慶応四辰年正月元旦

                          高 松 三 位

     小 沢 一 仙 へ

 

      条  々(b)

一、その方儀年来勤王之志達公聴候に付この度甲斐国中神官浪士の者その外有志の者 

  朝廷へ召され候に付万端実直の指揮御奉公筋可為励事

    慶応四年正月元旦

                           高 松 三 位 印 

      武 藤 外 記

      同   藤 太へ

 

 このようにして一仙と、高松、岡谷、武藤との関係は生じたのである。その頃の一仙は、京

都においても独自に公家に出入りする実力は持ち合わせていたであろうが……。

         

     C、 偽 勅 条 目

 さて、後において偽勅使と断定されるものとは、 どんなものかの検証しよう。その前

に、私が東大史料編纂所で見つけた高松保実が大口修理(大和守)にあてた書状を紹介

しよう。

 

 追申上候 連に不寝候故執事も一向眼霞甚朧々御推覧願入度候 新春御同事祝納存候

 余寒難去候 弥御安泰珍重存候誠先此来段々御深切の御取扱深忝畏存候 既に国益一

 条に付昨日も参上候得共御詰無之掛違再応晩刻罷出候積りし所へ伏見表戦争相始それ

 より詰切りにて今昼に到て退出候 扨て追々伝承所徳川終に朝敵被相成始候由 実以

 後その儘暫時も猶予忍難叶策略の廻し一戦に追討被為度これ等に付この有志小沢一仙

 義七人軍略智謀深き仁者に付被是この形勢に取奉為朝廷御味方の諸侯を引付何歟智謀

 のカ条数申聞候 内々貴官御聞被下度その上御為方にも真に可相成筋候はば御披露言

 上の義伏願入度存候 且過日来朝益国益の一件は少しも御急決願度候 且保実甚不調

 法者何等の御用等に難相立身分にも有之候得共 報国尽勤王の志者兼て憤発罷在候

 何のこの形勢に取一廉の御用御用勤仕相叶間敷候哉顧身歎出被申義も恐縮仕候 貴官

 迄歎試候也

   正月四日(慶応四年)

                            高 松 保 実

    大口大和守殿 内啓

 

 この書状でみる国益一条とは、前記の条々(a)を指すものと思われる。相当深く朝

廷内に浸透していたのである。単に「幼稚の公達を欺き奪出し奉り候…」と二月十日に

出された回章は、間違いである。

 さて、偽勅条目とされる「甲州治安十か条」であるが、藤野順著「偽勅使事件」から

引用しよう。

 一、甲斐国に於いては武田の旧制を復古し、日本国中にこの一国だけは別制を認める

   こと

 一、甲州金銀の山を掘ること

 一、甲府へ金銀座を設けるが、然るべき者へその元締めを仰せつけられること

 一、甲州金二十四万両、追々廃滅のこと 今度吹替運用せしめること

 一、長百姓は諸役御免、屋敷を賜ること

 一、当辰年は年貢は半納にて宜しく、右半分は百姓共に下し置かれること

 一、建武神官の儀は、今度勤王相励み候ものは、これまで朱印高に応じ、一倍増額、

   格年上京、朝勤を許し当人出精 次第、恩賞をなすべきこと

 一、武田浪士の儀は、各その在所において、石高を賜り、北面の武士同様に取立のこ

   と

 一、国中勤王の有志は上下の差別なく、勤めているによってその場所に下されおくこ

   と

 一、甲府勤番の者につき過を改め、勤王相励み候はば、旧扶持高に応じ、甲斐国中に

   土地を下され出精次第、恩賞をなすこと

     慶応四年辰正月

                           皇太后宮少進藤原朝臣   実  村 花押          

                  後見役 小沢雅楽助

 

 この条目は、私のような一仙の身びいきのものにとっても、あまりにも甘言としか言い

ようがない。民心収攬の道具のようである。幕府が勝つか、朝廷が政権をしっかり握る

ことが出来るのか、混沌としていた時代である。根を張った幕府を破るのは、民心の収

攬こそ早道であろう。ましてや幕府、藩も財政には苦慮している。そのため苛政を強いて

きたのだ。だから新しい時代の到来を願っていた。

 年貢半減令をもって進む類似した隊に「赤報隊」がある。西郷の命令で江戸を騒乱に

追いやり、幕府に手を出させて、討幕の大義名分を得た「薩邸焼打事件」で活躍したの

が相楽総三である。焼打ち後、総三は薩摩軍艦翔鳳丸に逃れ、慶応四年一月二日に兵

庫へ、五日には京に入り西郷とあっている。西郷は相楽に「公家綾小路俊実、滋野井公

寿が江戸で先鋒隊を結成するから、それに参加せよ」と進めた。そして、坂本にて七日両

卿に会い、その翌日松尾山に着いた。相楽ら浪士隊は、西郷らの武器援助を受けてこれ

に参加した。相楽は、維新政府に慶喜の地盤の関東を早く制圧する必要を説き、そのた

めに、年貢半減令を出して人心を天朝に集める必要を説いた。その考え方は受理され、

「幕府領へは、当年租税半減」の命令が一月十二日付で出された。そして、三井など豪商

からの軍資金を借用とのかかわりで、取り消されたというのが通説である。

 それを証明する田中彰の論に「慶応三年(一八六七)末、西郷らと結んで江戸薩摩邸に

浪士を集めて関東地方の撹乱工作を行った相楽総三は、鳥羽伏見の戦争直後、草莽隊

である赤報隊を組織し、新政府軍の先鋒として東山道を進撃し、諸藩を新政府に屈服さ

せた。相楽らは旧幕領の年貢半減令によって民衆を惹きつけその勢いはしだいに強くな

った。ところが、新政府はこれを「偽官軍」として弾圧し、三月には相楽らを処刑したのであ

る。赤報隊の人民性が新政府の意図をこえて民衆と結びつき、独自に発展していくことを

新政府は何より恐れたのである。その他の草莽隊も赤報隊とほぼ同じ運命を辿っている」

と、述べている

 また、甲州の復古は、長年一国をなすことの出来なかった甲州人への配慮であったろう。

 一仙だけの作文ではなかろう。岡谷や武藤、その時代の民心収攬の風潮もあるように思

える。もちろん私は、この条目が勅宣で、一仙が偽勅使などというつもりはない。た だ、朝

廷内に深く入りこんでいたことだけでも認めたいのである。想像するなら、相楽や西郷から

年貢半減令のことを聞いて、それなりにアレンジしたとみてもよいと思われる。

 

     D、高 松 殿

 京都は必戦ムードの中、高松実村を中心として一仙や岡谷らは同志を集め、慶応三年

暮れより出兵の準備をしていた。当時の志士たちは、名分を明らかにすると称して、少壮

公卿を総帥に擁立した。公家は千載一遇の好機ととらえ、自家興隆、長い間の権力回復

の潜在意識もあって意欲を燃やした。高松家の当主は、保実で扶持三百五十四石、三位

卿、公家の中級に位置していた。実村は二十七歳であった。

 実村を総帥として、一仙は後見人役、小沢雅楽助(雅楽は武藤家でよく使われる世襲

名)、岡谷繁実は家老職・斯波弾正、一仙の弟・平太郎は勘定奉行・小沢金吾である。

この一隊を「高松殿」と呼ぶ。

 この高松殿があえて京都を脱走してまで、甲州街道を進んだ目的について触れなけれ

ばならない。

 史談会速記録に、高野山で挙兵した鷲尾隊へ山県小太郎に誘われことが、岡谷の談話

として残っている。山県は、豊後の人で、小河一敏に感化され尊王攘夷の志をもった人

物である。また、一仙とは友人関係があった。その人物に誘われても、これを断って高

松殿を組織するのである。「国内騒乱となれば諸民の苦しみが大きくなる。鎭撫のため

兵力を用いないよう逸早く行動しなければならない。関東の要衝の地は甲州である。東

海、東山の咽喉は甲府である」と述べている。 また、実村は、「三条実美に挙兵を申し

込んだ趣意は、徳川将軍の政権返上し、二条城引き上げ、そして大坂より江戸に引き上

げた。しかし、この上は軍路を整え、徳川家は京へ上ることは必然と考える。その時は

薩長土の三藩と衝突はまぬがれない。故に一日も早く征討使なり、鎭撫使なり差し立て

るべきである。しかるに只今まで一向さような様子が伺えぬ。してみると、先手をとられ

ては由々しき一大事になる。私が同志を募って脱走し、鎭撫に出掛けるから、朝議決定

の上は何卒私へ錦旗一旒を御下付下されたく…」と、願い出ているのである。要は徳

川側が態勢を整えて、攻勢に移る前に甲府という要衝の地を抑えたいのいうのである。

 高松殿が京都を発つのは、慶応四年一月十八日の早朝である。その前十六日の段階

「明日は表向きの御沙汰になるよう取り計らう」三条実美は彼らに約束している。

私はこの時点ではかの条目が「偽」ではない方向にあったとみたい。十七日に御所よ

り呼び出しがあって保実が出ると、「俄に御評議が変わったので思い止まるよう」と申し渡

される。保実はこのことを一同に伝えると「今更ここで止めるのは残念、思い止まること

は出来ません」の意向に、再び保実は、実美に願い出るのである。実美は「なら、直接岩

倉具視に願え」となり、御所に一仙と実村は具視に会う。顔面朱となり、 屏風を転倒させ

るほど、激論したことが伝えられている。

 保実に智謀の箇条と言わせた条目は、その頃幕府までがやっていた建白ばやりが、朝

廷まで及んでいた説が多い。では勅宣となれなかったのはどうしてなのだろうか。一月十

四日ごろは、年貢半減令は西郷の意向で公になりそうであった。現実の財政に照らした

時、難しい問題となった。三井など豪商に軍資金を借りなければ政権を奪えないことから、

立ち消えになった原因と考えられる。また、一月十七日は、新政府の骨格「三職七科」が

決まり、自信萌芽の日であったようである。 

 ここで一仙が、御所に出入りしていることは注目に値することである。

 踊り狂う「ええじゃいか」も、神符の降札も世論を味方にしようと努めた新政府の策略と

みる向きがある。理路整然と明治維新がなされたのではない。刺客が命を狙う狂気の時

代だったのである。「勝てば官軍」策略は手段を選ばない。 高松殿が焦った理由は、赤

報隊の結成が一月七日であるので、この辺にもあったのではないか。高松殿は、赤報隊

に大垣付近で追いつく。大垣藩の交渉は双方でかかわったくらい、西郷と双方が縁を感じ

る。赤報隊は中山道を、高松殿は光州街道を目指す。

 話を戻すと、一月十七日京都を出た時の人数は十四人であった。二十日彦根藩と折衝

する。武器、軍資金、兵士、人足の提供を受けて「官軍鎭撫隊」の形を整えたのである。

 隊は徐々に大きくなっていく。「戦わんと欲せば戦え、降らんと欲せば降れ、兵糧なくば

貸さん。無睾の民をして兵火にかからしむことなかれ」と声高に呼ばわって進んだという。

当時の信州、甲州の各藩は、日和見主義をきめこみ、抵抗なく恭順した。彦根藩も幕府が

した減禄の不満から、協力を惜しまなかった。

 

     E、横 浜 掃 攘

 甲州に入った二月十日、岡谷は「江戸を抜くのは後にし、まず横浜を掃攘せん」と演説し

た。それには錦旗と倫旨が必要なので、平太郎ともう一人を京都へやった。

 この返事かどうか判明しないが、「近々倫旨錦旗を取り計らう。中山、三条大納言の内

命を取り付けた」とあった。これに意気あがり、二月十一日、本隊は甲府へ乗り込む。

 一仙は、先触隊長として、一月二十一日には垂井、二十二日は加納そして信州路を通

り、二月一日に甲州入り、二月三日甲府へ着いている。先触隊長として下工作を順調に

こなしている。そして、武藤外記、藤太親子とは遠光寺寺で二月四日会っている。

 この横浜掃攘が、一仙の意向も反映したものかは疑問がわく。一仙は太田資始の側に

いて、外国の実力を知っていた訳で、掃攘などと口に出さないと思われるからである。

岡谷はこの「横浜掃攘」が高松殿が弾圧される原因になったと後日述べている。

 「攘夷」というキーワードは、不可能を承知の上で、民意をまとめやすいスローガン

として、高杉晋作らが掲げたという説がある。幕府軍はフランス、新政府軍はイギリス

の指導で動いていたのだから、横浜掃攘演説の岡谷は、蚊帳の外にいたことになる。

 余談だが、攘夷が渦巻くなかをアーネスト・サトウは、少しの護衛(日本人)で、比較的

自由に東海道を歩いている。「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)にあるように、

我々が今思うような状態ではなかった。もちろん、外国人殺害は後を断たなかった。文

久二年だが、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)らは品川御殿山に建設中の

イギリス公使館を焼いている。これが若し人身に被害を与えたなら、維新史は違ったろ

う。伊藤の首相など考えられない。外国人が相当維新史の部分を占めていることを知っ

た。

 

      F、高松殿弾圧

 自らを脱走と言っているように、勅使ではないことは事実である。先にも述べているよう

に、甲州と根回しは出来ていたのである。勅使になりそうであったことも事実であろう。

 朝廷内の記録でも、一月二十三日の段階で高松保実に「実村を引き戻すよう」との要請

がなされている。信州あたりの記録でも「偽臭さ」を感じている。決定的になった「回章」は、

二月十日付である。

 

              回   章

 高松殿京師御脱走ニテ人数召連レ、東国ヘ御下向之趣、右ハ勅命ヲ以テ御差向ニ相成

 候義ニテ無之、ハ全ク無頼ノ奸徒、幼稚之公達ヲ欺キ奪出シ奉リ候、右無頼之者共、

 当総督府様ノ先鋒ト偽リ、通行ノ道々、金穀ヲ貪リ、其他如何様ノ狼藉可有之哉モ難

 計ニ付、諸藩イヅレモ此旨篤ト相心得右等ノ徒ニ欺レ不申様可仕候、尤右公達ニ於テ

 ハ卒忽之義無之様可仕候得共、人数ノ義ハ夫々取押ヘ置キ、総督御下向之上、御処置

 相伺ヒ候様可仕旨御沙汰候事

  附、先達テ綾小路殿御手ニ属シ居候 人数、綾小路殿既ニ御帰京ニ相候後モ、右ノ

 者、無頼ノ徒ヲ相ヒ語ヒ、官軍ノ名ヲ偽リ、嚮導隊抔ト唱ヘ、虚喝ヲ以テ農商ヲ劫

 シ、追々東下致候趣ニ相聞エ候、右等モ高松殿人数同様之義ニ候間、夫々取押ヘ置キ

 可申旨、被仰出候事

   二月十日

                                             東 山 総 督 府

 

 このように、赤報隊は「偽官軍」、高松殿は「偽勅使」となるのである。

 また、二月十一日、甲府城代と本格折衝となった。この時丁度、東海道鎭撫使の使者

・黒部治之助が来て「偽勅使」と断定した。その前より城代は、江戸に伺いをたて右往

左往していた。

 高松殿側の言い分は「もとより脱走の身なれば、鎭撫使に引き渡すのが妥当」と甲府

帰順は、これに任せたとある。

 強い断定なら、十五日まで石和、谷村まで進むはずはないのだが、反乱軍を鎮圧して

から引き返している。

 信州の蔦木宿で大方は解散した。一仙はここまで同行する。何か決意するものがある

らしく、東海道を京に出ると、弟・平太郎と一隊とは逆方向に戻った。韮崎付近を通行

中、幕府の役人に捕らえられた。二月十八日のことである。牢中にあって代官・中山誠

一郎にあてた言上書を全文を載せる。

 

       言  上  書
一、高松皇太后宮少進殿鎭撫隊長小沢信秀言上仕候、私儀 年来富国強兵之策心掛
其筋へ数々建白も致来候処、去る冬政権を被奉帰朝廷へ候より被為置、朝廷に候ても
諸藩被召寄王政復古之御基本被為建候に付、普天之下率土之浜 勤王有志之者は王
臣と可心得条難有奉存、卑賎草莽之私僭越過当之義不顧恐れ国内平和富国強兵之趣
意高松殿より其筋へ奉建白候折柄、去る正月三日徳川御家朝敵之名被為蒙候事、真に
悲歎之次第無御拠義と奉存候、是件より国内騒乱と相成候ては諸民難渋之至、何卒干
戈を不用朝威を相立徳川御社稷にも不拘民の塗炭不陥様致度、国家之為決死之覚悟
去る十八日高松殿に付属京を出発致し、濃州地より南信州地之諸家に当り右之趣意を
以説得致し、帰順反正之地を略し、後日徳川御家御謝罪之節迄其儘鎭静可致義を楽み
に愛憐を加え下民を安じ諸家之警衛を受候のみにて、浪人を不加金穀を不貪、当国へ発
向致し既に国中七八分鎭撫可相成候之処、東海道御掛り橋本殿、柳原殿両殿御使者到
来に付町奉行所に於て始終御相談之上両殿之御使者衆へ御任せに相成候 事件より却
て当国之義は人和を失ひ、就中誹謗之流言実以歎敷御義と存候処、帰京之場合信州蔦
木宿へ着陣之処、中山道筋岩倉殿執事衆より信州筋諸侯へ廻文を以て御疑惑之廉々御
説流し候条諏訪藩士より掛合之義に付、君父之命を以帰京之次第申入候共未だ決言無
之に付、私儀御用承り東海道筋上京可致段被仰付候間、一僕引連宿次を以て明に出立
之処、山口御番所役人引留之談有之候に付、当役所へ御届けに可出義にて韮崎宿迄通
行之処、御役人衆出合一泊之後御呼出に付出張之処、途中御召捕に相成候段、前条之
次第御当殿非道之義無之上者私共取計に付ても愛憐計を加え候事件に候得者、方今之
身体不恥入義に候得共一旦当殿之御恥辱は即ち朝廷之御恥辱にて此段重々奉恐候、奉
対天朝少も御申訳無之次第何れにも其罪難遁義と存込御沙汰を待候より外無他事候間、
過日中掛合之通対朝廷帰順之思召に候はば速に京都へ御送被下候上、罪御座候はば軽
重共於京都公明正大之御処置を以て彼殿可被相糺候間、此段深く御憐察被下早々御決評
之御沙汰奉願上度決死之覚悟他に言上無之候            以上
   慶応四辰年二月              高 松 殿 内
                            小 沢 雅 楽 助
  中山誠一郎様
       御代官所

 

 この言上書は、傾聴に値すると思う。「当殿の御恥辱は、即ち朝廷の御恥辱」と 言い

放つあたり余程の自信と抱負がなければ出来ない筈だ。

 裁判が行われた気配はなく、二月二十九日死刑が確定、三月十四日、討首、梟首とな

っている。

 

    G、功、罪、罰

 「慶喜公が上野に行かれましたのは、高松殿の一挙が響いたのでありましょう」と、

史談会の寺師の質問に対し、岡谷繁実は「江戸開城の余韻になりましたに違いありませ

ん」と答えている。寺師もその結びで「当時の功を論ずるならばあなた方を第一に置か

なければなるまい」と言っている。

 甲州においては塚原先生が「一仙等のこの挙が、甲斐人士に与えた影響は多大で、後

の自由民権運動に加わった人々もこの挙に参加、その思想が拡がっていった」と述べて

いる。

 

高松保実 自主謹慎 六十日間(自正月二十三日 至三月六日)

高松実村 謹慎 六ケ月 大政官命令(自三月六日 至九月八日) 

  脱走中、朝廷内で岩倉中心に、実村に対し「切腹させよ」との評議があった。それを

  中山忠愛の尽力で止めさせたという。謹慎が解かれるとすぐ官職に復帰している。

  そして明治十七年、維 新の功で子爵位を授かっている。

岡谷繁実 謹慎 明治二年正月復籍、元高三百石を頂き、公議人となったことも同三年

  家禄四十石、更に四十石の増配も勤王の認めからであった。

  また、田山花袋の小説「時は過ぎ行く」の旦那のモデルは彼である。

小沢金吾(平太郎)捕まったが、どんな 罪にあったのか不明である。

小沢一仙 役人によって捕らえられたが、梟首の刑の執行者は維新政府である。山梨県

  史にある「刑罰」の項を引用してみる。

 

         斬   首

明治元年三月十四日 皇太后宮少進高松実村家司小沢雅楽助罪アリ斬テ之ヲ梟ス

正月高松氏京師ヨリ美濃ニ奔リ私ニ東国鎭撫ト称シ信州諸藩ヲ徇ヘ二月三日家司小沢雅

楽助(本伊豆ノ彫工ニシテ前年甲府ニ至リ留ルコト数年後去テ四方ニ遊説シ遂ニ京師ニ

赴キ諸縉紳ヲ干シ是ニ至テ高松氏ノ家司ト称ス)ヲシテ先甲府ニ至リシム町奉行(若菜

三男三郎)之ヲ遠光寺ニ舘ス 十一日高松氏信州諸藩兵ヲ率イテ巨摩郡韮崎駅ヨリ甲府

ニ至ル 町奉行亦之ヲ教安寺ニ舘ス 十二日高松氏雅楽助ヲシテ勤番支配町奉行及三部

代官ニ諭シテ甲府城ヲ致シ版籍ヲ奉セシム勤番士等肯セス 十三日高松氏江戸に赴クト

揚言シ八代郡石和駅ニ至リ次スル一日一モ為ス 十五日ニ至リ再ヒ諸藩兵ヲ率キ京師ノ

急命ヲ赴クト宜シ甲府ヲ経テ韮崎駅ヲ次シ遂ニ信州ニ至ル 後数日アリ雅楽助復タ独リ

信州ヨリ還テ韮崎駅ニ至ル 甲府代官(中山誠一郎)吏ヲ遣テ之ヲ捕ヘ甲府ニ禁固シ是

ニ至テ刑ニ処ス 其断按ニ曰

                              小 沢 雅楽助

其方儀 悪逆無道之巨魁ニテ色々偽計ヲ以テ多人数逆徒ニ欺マシ入レ諸所ニ於テ金策ヲ

ナシ上下人心ヲ動乱致サセ候始末不届至極 不得止打首申付首級ヲ道路ニ曝シ置者也

  辰三月十四日

刑場は、甲府山崎刑場とも甲府城内とも言われる。彼の才能は、首とともに飛び散っ
たのである。

 私は、この項から《分際の悲劇》を感じるのである。思想は、結局は財力に潰され、
身分はその人の行動の衡にされる。革命とは矛盾の膨らみで生まれ、矛盾を残し、形
だけの切開して収束するものらしい。言うなら、同じことをしても身分のない者は、同じ
ことをしても罪となり、それが高いものは功となる。憂国の奇才も未来に思いを馳せつ
つ、甲州の露と消えたのである。

 

     G、辞世・墓・戒名

   君がため邦ためとて死ぬ命 心の手綱しめて急がん

   惜しからぬ命なれど惜しかりき 尽くす心の仇となりせば

 この辞世は「誠意」と題して、甲府の牢より武藤外記におくったものと言われる。命

を捨てることも潔しとしながら、事業なかば、それも濡れ衣を着せられたまま死ななけ

ればならない無念さが溢れているではないか。

 墓は、御坂町の武藤屋敷跡に、藤太が「あ奴は可愛そうな奴」と、言って建てたもの

と、身延の職人仲間の石川家墓地(常福寺)とがある。

 前者に首、後者に胴体が葬られているという。常福寺の墓は、刑死をはばかり「石川

市仙」と墓標に刻まれている。没した日も、一日前の三月十三日としている。両者とも

刑死ということで遠慮しつつも、一仙を惜しむ好意の人達の建立だった。また、江奈札

場の累代の墓は、松崎町江奈・禅海寺の「浜堂墓地」にある。 

 戒名は、「朝仙院常謙信秀居士」である。

{参考文献}

          館林双書23 「岡谷繁実の生涯」工藤三壽男著   館林市立図書館

          「武藤外記昌通=梁山泊・黒駒」 坂名井深三著 山梨県立図書館蔵

          「偽官軍と明治維新」  芳賀登著         教育出版センター刊
 



私は、歴史は「共有物」という考えから、公開を旨としています。
皆様と考えを合わせながら研究を進めたいと思っています。
小さな情報でもお寄せください。

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