A なぜ人物研究するか? 「温故知新」

 松崎町は、多くの偉人をだすと言われます。こういう風土を「誇り」に
することができれば、今後の私達に大きなエネルギーになることは間違い
ないのです。そのためにもその時代、育ち、環境、志し、経歴、功績を勉
強しなければならないと思います。


  
B. なぜ松崎町に偉人がでるか?

 永岡治先生(八木沢在住)の著書に「群像いず=志に生きた郷土の先人
たち」(静岡新聞社刊)があります。伊豆といっても三島まで収録されて
いますが、14人もいるのです。三島の19人についで2位、下田より多
いのです。

 このことについてその頃存命だった、須田昌平、広沢憲雄(両者は松崎
中学校長を歴任)に聞いたことがあります。

 須田先生は、貧弱な風土に強固な意志力のひとがでる。「家貧しうして
孝子出ずる」の例をひき、この貧弱な風土とは、物質的なものだけでなく
文化的にも政治的にも、都会とは比較にならない土地に生活したものが、
どれだけそれに渇き憧れを求めたか、はかり知れない。これら世に出たひ
とをみる時、貧しさの中で、何らかの恵まれた事情で都会に出、人間的に
世間を広くみる眼が培われ、そこから成長しているように感じる。田舎育
ちの純粋な心、貧しさに耐え抜いた強靱な生活力がものをいい、真面目に
コツコツと自己形成していったのだ。そこには偶然にも自己形成をなし得
る環境があった。長八には波江野、勉三には福沢諭吉、礼助には江原素六、
平三郎には東京帝大(東大)、一仙には志士との交際による、刺激剤があ
ったからこそ、あのような人物が育った。と言われました。

 また、広沢先生は、種々な理由があろうが、「教育」が第一と、言われ
た。なお最近判明したが、三餘塾へは遠方よりの塾生があり、東大医学部
1期生の清野勇がいた。「週刊コラム170号」にあるので読んでくださ
い。

◎石田 礼助
 
1886〜1978 三井物産総帥から国鉄総裁へ
◎入江 長八  
1815〜1889 新しい漆喰鏝絵芸術を創造した名工
◎小沢 一仙  
1830〜1868 男の夢を追い続けた幕末の志士
                  
琵琶湖運河計画、偽勅使事件
◎近藤平三郎
1877〜1936 文化勲章を受章、世界的アルカロイド研究
◎佐藤 源吉  
1829〜191 明治初期の岩科村戸長、牧場開設、学校建
               設

◎鈴木 真一  
1834〜1918 米国で新技術習得、貴重な伊豆記録写真
◎須田 昌平  
1905〜1986 教師生活の傍ら作歌活動、小中学校の校歌
               も作詞

◎高橋 郁郎  
1892〜1981 戦中、食糧増産のためのミカン園伐採に抵
               抗。県柑橘試験場長、日本果実協会創専務
               理事

◎土屋 三餘  
1815〜1866 武士に抵抗して、農民の子弟教育ひと筋
◎本多 正観 
1782〜1845 松崎に藺草栽培と畳表製造導入、人材育成。
               淨感寺(長八記念館)

◎依田佐二平
1846〜1924 豆陽学校、松崎まゆ等、教育、産業振興。
               勉三の兄

◎依田 善六 
1850〜1920 事業の利益を社会に還元し産業振興、初代
               晩成社長

◎依田 勉三 
1853〜1925 半世紀にわたる苦闘、北海道十勝開拓の父
◎渡辺平四郎
1868〜1931 樟脳製造から伊豆の鉱山王へ多彩な活動

 私はこの14人のほかに、軍艦設計技師岡崎八十八、定置網・遠洋漁業丸
高水産高橋亘、岩地水産斎藤治郎左衛門を「伊豆の一仙」であげました。

 また、広沢憲雄先生は、銭洲漁場発見稲葉七、宮大工石田半兵衛(一仙父)、
延寿院主武田快暁、会津藩家老・謹申学舎長保科(西郷)頼母、県薬剤師十傑
近藤平八郎(平三郎父)、岩科学校初代校長(会津藩士)山口盤山、子弟教
育高柳天城、西豆漁業組合長石田房吉(礼助父)、水力発電所社長依田善吾
(勉三弟)、晩成社農牧事業監督松田六二郎、畜産組合設立渡辺要(勉三弟)、
牛の改良土屋準次(三余養子・善六弟)、県漁業組合取締所議員松本仙蔵、岩地
水産創立斎藤三郎(治郎左衛門父)、蟠竜学園平田真道、耕余学舎山口春岳、
教育推進鈴木忠兵衛、二十一年間町長、松崎女学校設置依田四郎の名をあげら
れました。
拙書「伊豆の一仙」)より。

 なお、松崎町が発行した「郷土の先覚者たち」に、南鳥島発見者・斎藤定蔵、
岡藩杣頭(椎茸栽培)斎藤重蔵など多くの名がありますので、参考にしてくだ
さい。また、松崎町長をされた故依田敬一、造船の名工岡村末次郎。現存の松
崎中学校卒・私のクラスメート・元東京農工大教授・工学博士関寿、日展彫刻家・
松田裕康、彫刻家平馬学もあげたいと思います。なお、仁科報徳信用組合を設
立、全国表彰された須田兵衛門(孫の太郎は静岡相互銀行筆頭取締役)、県知
事をした山本敬三郎の父、田子漁業に貢献・山本忠助(2代目)、俳優三国連
太郎も 松崎町出身者です。

 そして私が考えるには、昔は川が物資の輸送に大層役だっていたことです。
2つの川(那賀川、岩科川)の河口に港があったことです。伊豆南西海岸は潮
流や風向きによって「風待ち港」が必要でした。そういう文化の交流する場に
松崎町が適っていたというわけです。山林業、農業、漁業、産業、商業も連鎖
的発展したのです。
また、冬の強い西風も、「何くそ精神」を培ったのではな
でしょうか。

@自己紹介にかえて AーA.伊豆人の性質 AーB.松崎町が多くの偉人を出すのは?
B勉三って、どんなひと
  Bー私と翁との出会い
  Bー
A.略歴年表  

 BーB.生い立ち
 BーC.十勝開拓への使命感 
BーD.苦難の道
BーE.水田所の宴(晩成社は成功者?)
C 結論として
    皆さんへのメッセージ
D付録、松崎町・下田北高にある関係写真 渡辺勝日記 BーF.こぼれ話序文   こぼれ話6話 FG
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