B 勉三翁って、どんなひと

 C.苦難の道
◎鈴木親長
 晩成社名は、鈴木親長(銃太郎、カネ父)が「大器は晩成す」からとり、真面目で
性急な勉三を諫めるためと言われます。この人は隠れた存在で、もしいなかったら晩
成社は短期解散されたかもしれません。
 上田藩(長野県)勘定奉行(村松親賢)の家に生まれ、鈴木家に入り婿します。文
武両道にすぐれ、藩校や武学校の指南役を務めます。武士は維新と共に失業しました
から家族を集め、
「日本国民は太古みな農夫であった。人間が増えるにしたがって職
業が別々になり、士農工商の4民が出来上がった。わが家は禄を失ったのだから、昔
の農に帰らなければならない。しかし小作人になることは士族の体面上出来ない。ま
た他人の拓いた土地を買い取って農業を営むことも潔しとしない。幸い北海道は未開
の土地が多い。一家はこれに移住、新たな土地を拓いて農業を経営するなら、1に報
国、2に家計を支える道で、かつ武士の道である」
と説きます。

 親長と勉三翁との出会いも、横浜あたりで北海道開拓の辻説法している勉三に出会
ったのが最初とも言われます。やがて第一移民団が渡道しての半年後に、娘カネ、勉
三弟文三郎と帯広での開墾に加わります。数年在住しての帰国後「十勝国移住案内」
など著して協力を惜しみませんでした。
 なお、親長の妻「直」は極端な田舎嫌いで、夫と渡道しませんでした。一度だけ夫
を迎えに帯広を訪れますが、勝、カネの家を訪れ、「こんな小屋でなく、はやく母屋
へ案内しなさい」と困らせたという逸話が残っています。

◎晩成社結成
 北海道開拓の志をもち、勉三翁が勝を伴い一族の説得に帰郷したのは明治9年9月
でした。しかし兄佐二平は公務多忙を極めていました。ミイラ取りがミイラになる例
で、富岡へ養蚕や製糸の研究、下田北高の前身「豆陽学校」創設の手伝い、12年開
校時には勝が教頭、勉三は教諭に就任します。この年、リクと結婚します。
 そして14年1月、正式に北海道開拓を表明します。そして勉三翁は単身渡道、探
査して歩きます。その時の模様を「北海紀行」という冊子にしていますが、海岸線だ
けですが、十勝に足を踏み入れました。また、老漁夫の家で宴会しているところへ一
夜の宿を頼みますが、なかなか受け容れてもらえず土下座して家の一隅へ泊めてもら
う屈辱を味わいます。あの乞食姿の写真はこの時を思って撮られたようにも思えます。
 
◎株主、移民団募集
 勉三翁と銃太郎は、明治15年7月15日オベリベリ(帯広)を開拓地と決め、銃
太郎のみ当地に居残って越冬します。この間、各種作物の植生調査をした記録があり
ます。
 一方、渡辺勝を中心に株主や移民募集します。いくら理想を説いても両者とも応じ
る者は少なかったようです。温暖な伊豆の地を離れての厳寒な未開地北海道開拓は尻
込みするのは当然とも言えます。株主も依田一族でしめ、移民者は勉三とリクが地元、
渡辺勝が名古屋出身、東京から1人、他は南伊豆町青野から下小野までの街道沿いの
24人でした。それも1歳5ヶ月の幼児から54歳まで、14歳以下4人を含んでい
ました。なお先日、北海道からの研究者と現地視察をしましたが、狭小な棚田の地で
相当生活困窮者ではなかったかと想像しました。(松崎町からは半年後に文三郎が行
き3人)

◎2人の息子の幼死
 勉三翁の不幸は、実子に恵まれなかったことだと思う。リクとの間、後妻サヨとの
間にも男児が誕生するが、2人とも幼くして亡くなります。リクが生んだ俊助は義姉
に預けられ、夫妻は十勝開拓に赴きます。しかし半年後、親に看取ってもらえず2歳
2ヶ月の生命で終わり、また、サヨが生んだ千世(ちよ)に至っては2ヶ月と短命で
した。千世は函館病院で亡くなるが、
医師の療法も、胃病なら絶乳と決めてかかり、
何の処方もされなかった。千世の空腹を思い、我が身を切られる思いがしてならない

という内容の日記を残した。

◎越冬した銃太郎

 帯広はアイヌの人達が住み、和人は1人いましたが郵便局などありません。手紙類
は時たま入るひとに託すのですから、4月3日になって大沢発1月13日付勝の手紙
が舞い込む状態です。それには、「移住者は2月下旬に横浜に集合、3月上旬同港を
出る手筈……」とあり、5月7日になって3人の移民者の顔を見るまで、彼は勉三の
開拓心を疑ったようです。なお、全員が揃ったのは5月20日でした。

◎帯広まで難路
 
横浜に集結した13戸27人は、明治16年4月9日渡辺勝と鈴木カネの結婚式を
勉三夫妻の媒酌で行いました。そして10日汽船高砂丸に乗り
横浜出航、14日函館
入港します。移民者は遠山の雪景色を見て早くも里心を起こします。一行は陸路隊と
海路隊に分かれます。
○陸路隊(勉三隊長以下16人)このうち12人を先発させ、勉三とリクら4人は函
 館で用務をすませてから後続します。橋など完備していない時代ですから、身体を
 水に浸したり、蔓梯子を作って崖を降りたり、磯道は潮や波などの様子を見ながら
 歩くのです。タイキ(現大樹町)では宿もなく、破れ小屋には屋根もなく容赦なく
 降る雪に凍えそうになります。なお、途中で逃げ出そうとする夫婦もありました。
○海路隊(勝隊長以下11人)襟裳岬沖で暴風雨に遭遇し、大事なものを樽に詰めて
 流そうとするほどでした。まさに間一髪、九死に一生を得ます。そして子供持ちの
 家族4人だけが海路、他は陸路を大津へ歩きました。
◎全員の帯広到着は5月20日でした。横浜を4月10日出航した一行ですが、上記
 のような苦難を体験し、5月7日が第1班、7裂もして最後が20日に着いたので
す。それも8月には3戸4人が逃げ出す有様でした。

◎帯広の地と農作物
 
奥地すぎ道路もなく陸の孤島に等しかった。唯一の手段はアイヌの丸木船を雇って
した。物資や人の出入りに時間と経費を要したことは選地の失敗とも言える。輸送費
だけの骨折り損となった。
〇当初の開拓は測量して申請、許可が出て着手、道路、用排水、防風林、橋などは寄
 付願いを出した。そして開墾、成功願いを出し、認可されて所有地となる方式。
〇適合作物
 特に北地、未開地にあっては適応作物を見つけるのに骨が折れた。また、鹿の角集
 めに放った野火が作物のみか家屋まで焼くほどであった。バッタ、野兎の食害。蚊、
 ブヨ、虻による作業苦。旱魃、長雨、早霜の害に苦しめられた。
○女ジェンナー
 渡辺カネは第一陣に遅れること半年で入地するが、移民者の多くは蚊が媒介するマ
 ラリア病に苦しんでいた。そこでワッデルから譲られたキニーネを夫勝に試みた。
 もし処方を間違えば死に至る劇薬である。故に女ジェンナーと呼ばれる所以である。
〇大豆が安定作物
 カネが入地そうそう読み書きを教えた中に、南伊豆町市ノ瀬出身の山本金蔵がいて
 公費の札幌農芸伝習所で学んだ。その時、数粒の大豆種が帯広へ送られ、それが明
 治24年最初の安定作物となった。
〇農作試験場に土地を提供(初めは測候所)。
〇米作に執着するのは百姓の常で、勉三翁は川水を引き込む一部に下からボイラーで
 温め、引水したが、出穂期に早霜にあい全滅したという。
 だが明治27年ごろ、土狩地方の黒毛品種を試作中、早霜にあっても枯れない「香
 (ニオイ)早稲」を発見した。これは少し臭気があるが、反当たり5俵を収穫。そ
 して途別水田成功につながる。
○開墾の始めは豚とひとつ鍋
 時期の確定は出来ませんが、明治17年か18年と推定されます。なぜならリクは
 18年9月には療養のため伊豆へ帰るからです。大津に預けてあった晩成社の米が、
 海が荒れて蔵主が土地の者に流用したため飢餓に陥ったのです。見れば大根の干葉
 と野草の間に少量の鮭肉、数える程の米粒だけだった。塩味のそれを一口入れた勝
 は、また、椀の中をじっと眺めた。そして、太い息を吐き捨て、「落ちぶれた極度
 か豚と一つ鍋」と、口をついて出た。これを勉三は切り返すように「開墾の始めは
 豚と一つ鍋」と訂正した。また、親長は「野山には緑があり、移民者の子供もアイ
 ヌの子供もスクスク育っているではないか。早くこの地に適した作物を探し出すこ
 とだと、なだめた。
○畜産の移入
 帯広の「トン鍋」は有名ですが、最初は釧路の業者からもらい受け、帯広まで連れ
て帰りました。また、牛は明治21年8月30日釧路を船で発ち、青森へ買い付けに
出掛け、9月30日40頭を船に乗せて生花苗へ向かわせ、勉三は札幌などで用事を
済ませて10月26日生花苗に着きますが、牛は11月2日に着きます。2ヶ月余を
費やして購入したのです。。
○銃太郎と亀裂
 勉三の経営者、銃太郎の作人的立場から生じた行き違いである。銃太郎は作物の収
 穫の目安がつくまで晩成社が面倒をみるよう提言をした。生活費までも借金とする
 と雪だるま式に膨らむことに不満を持ったからである。また、この伏線として親長
 とカネが、銃太郎とアイヌ娘コカトアンとの結婚反対を勉三に入ってもらったこと
 があったようである。
 しかし、確執は一生続いたわけでなく、東京の往復には函館の勉三を訪れ、大正9
 年「水田所の宴」に出席している。なお、勉三危篤時の「面会謝絶」は死の床の勉
 三が言うはずもなく、銃太郎が立腹したというが誤解であろう.

◎妻、リクとサヨ
 明治27年2月には勉三夫妻は共に寝込む。そのため勉三はリクを養生のため無理
矢理伊豆へ帰そうとするのは函館時代である。これに従えば離婚と同じと彼女はなか
なか応じず、やがて納得して帰郷する。伊豆へ帰るまでの間の勉三の気のもみ方は異
常で、愛ある別れであった。
 ややして「女手ないのは不自由」と、世話をする人があって女児2人子連れのサヨ
と再婚する。サヨは晩年、中風で倒れた勉三を看病中急死する。そしてキクらの計ら
いで、リクと再会させようと呼ぶ。彼女はしばらくはおとなしく看病していたが、従
兄妹同士の親しさから喧嘩をし、一つ屋根の下にいても再び病床を訪れなくなる。や
が見舞いに訪れた伊豆の人達に連れられ帰郷したという。なお勉三の葬式に来たなり、
北海道豊似で(昭和10.11.3)73歳の生涯を閉じた。また、大沢墓所(隠居)
に死後間もなく分骨され、俊助を中心に勉三と川の字となって眠る。最近聞いたが、
中川小学校の生徒達も立ち会って分骨式(墓石建立)が行われたと言われます。
 なお余談ですが、「鮎の茶屋」入り口に佐二平の石像が建っていますが、最近話題
になった江川坦庵石像の作者と同じだということです。

◎晩成社には何も残ってはいない。ああ、しかし、十勝野は
 この言葉は、晩成社は破産してもおかしくない状態となるが、十勝野はかくも拓け、
穀倉となったことの自負であろう。関東大震災のより東京大学を中退して勉三のもとに
身を寄せていた三原武彦が聞いたとされる。また、翁は昭和29年9月、北海道開拓神
社37番目の祭伸となるが、福島利雄らと共にため尽力したひとりでもある。
 氏は勉三の伯父鈴木真一、西郷頼母の妹美遠子の孫にあたる人物である。父が軍人で
あったので山口中学校に入り、机を並べたのが近所に住み、総理になった佐藤栄作であ
った。ふたりは文学や哲学の話をして野山を歩き、多感な少年期を共有した。のちに人
に問われると武彦は少し恥ずかしそうに「竹馬の友です」と答えた。と、娘である島田
ユリさんは帯広百年館刊「ふるさとの語り部」に寄稿している。
 氏は、真一長女四二子(よにこ=明治42年生まれ)が、軍人三原三郎に嫁ぎ、明治
33年11月16日佐倉市に生まれた。大正の末教育界に進出、小樽中学校英語教師を
振り出しに帯広高女教頭時代は進駐軍通訳として外人からの依頼を受けた。のち初代八
条中校長に着任、教育界に尽瘁すること35年、昭和34年4月定年退職まで地区の青
少年問題に熱心に取り組んだ。昭和42年7月9日札幌で亡くなった。
(拓聖依田勉三)

◎晩成社の解散
 
昭和7年12月、晩成社解散清算人は依田薫平(佐二平の子、この時は佐二平を名乗
る)、のち依田四郎が当たる。解散後は生花苗地区は民有未墾法、自作農法。途別農場
は自作農法により解散。徳源地は小作人一同に無償給与された。

@自己紹介にかえて AーA.伊豆人の性質 AーB.松崎町が多くの偉人を出すのは?
B勉三って、どんなひと
  Bー私と翁との出会い
  

 BーA.略歴年表
  BーB.生い立ち
BーC.開拓への使命感   D.苦難の道
BーE.水田所の宴(晩成社は成功者だった)
C 結論として
    皆さんへのメッセージ
D付録、松崎町・下田北高にある関係写真  渡辺勝の日記 BーF.こぼれ話序文   こぼれ話6話 FG
   表紙に戻る  勉三一代記「風吹け、波たて」
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