B 依田勉三って、どんなひと

   E.勉三語録・こぼれ話

◎勉三、北海道開拓を志す(明治9年)
 われら年来の心願と申すは、忠国愛国でなければならぬと思いまして、東京にて四、
五年間読書もいたしました。だが、胃弱になり、また脚気症にも二カ年間悩められなど
して、とても学問では成りがたく思いまして、農業をいたし、身体を健やかにして国に
尽くさんと決しました。そうして、北海道は不毛の土地も広いことを聞きましたから、
国に尽くす場所も北海道と定めました。
 この時の歌は、
  「ますらおが心定めし北の海 風吹かば吹け波立たばたて」
と、申しました。
 また、北海道へ移住の時、私の畏友にて、年輩(兄・佐二平)が郡長をしておりまし
た。これにも久しく会えぬことになりますから、わざわざ遠路を会いに行きましてご高
見も伺いたく、蓮台寺と申す所に参りました。ここはもはや郡役所の間近ですが、これ
に参りますと、郡長はご不在と聞きまして、空しく帰ることになりました。
 その時の詩は、
  欲 訪 君 家 君 不 在 君が家を訪ねんと欲すも 君在(い)わわさず
  蓮 台 寺 畔 思 給 給 蓮台寺の畔(ほとり) 思いは給々たり
  此 行 豈 只 一 身 計 この行 豈(あに)只一身の計のみならんや
  願 報 国 恩 幾 萬 分 願わくば国恩の 幾万分を報わわん
で、ございます。
 国の公益を謀りたく心がけましたが、晩成社を設立して年来奮闘したつもりでござい
ますが、いかんせん晩成社が不結果に陥りました。これは事業がやや成功いたしました
が、これに投じた金は莫大でございまして、父兄の迷惑は一方ならず、とても国益どこ
ろではございません。国損をいたしまして、国家の罪人となりました。

◎北海紀行(明治14年単身渡道)

「十月三日、曇天。時に雨降る。(中略)時に 日既に昏れたり。漁戸に投じて泊す。初
めこの家に至るやたまたま、鮭の初漁にして漁夫十数人祝宴を張りて囂々たり。余つい
て一泊を乞えども応ぜず。再三すれども皆聞かざるに擬して応ずるものなし。辞を卑う
して強いて乞う。あたかも乞児のごとくす。これに於いて一漁翁、情あるがごとくしば
らく炊婦に謀る。炊婦ついに諾す。この家は主人他出しておらず。土人これを観守す。
余また土人に敬礼し、慇懃に一夜の厚意を謝す。土人に向かいて平身低頭することの出
来せしこともまた一奇事と言うべし」
=屈辱的体験

◎開墾地下付願い
「私ども今般別紙規則を編成仕り、当道開拓の志ありてその資金に乏しき者、あるいは
これ無き者へ資金を貸付け、漸次十五カ年間に、一万町歩開墾仕るべく見込みに御座候
処、地代上納仕り候。ついては到底貧民の負債相重なり候場合に立至り、且つ当社資本
も甚だ微かにこれ有り、開墾の目途相立て難く候間、この段御燐察下され、大政府拓地
育民の御趣旨に基とされ、出格の御詮議を以て右地所墾成の上は無代価御下付仰付けら
る様、願い上げ奉り候。しかる上は移住人民、即ち当社の者共一同感奮ますます勉励仕
り、御国恩の万一に対え奉りべく候。尚実地個所の景況によりその都度相当の地所御割
渡し方出願仕り、御指導に随い追々区域拡張、開墾従事仕りべく候得ども、その隣地に
来り開墾相営むものこれ有り候とも当社に於て差し仕え御座なく候。何卒特別の御寛典
を以て墾成相成り候分は無代価御下付の儀仰せ下され置きたく謹んで懇願奉り候也。
            平民 当時札幌大通西四丁目石川方寄留
                  北海道晩成社発起人総代 依 田 勉 三

◎ 晩成社規約緒言、
「北海道の開否は、わが全国の形成上、重大の関係ある所なれば、国民の義務としてそ
の責任を担当せざるべからず。これこの社を起こす所以にして、またわが同胞人民の賛
成を請う所以なり……」


明治16年(1883)3.14大沢で送別の宴。

   遺却鴻恩又北遊  弟兄相対涙空流
   男児報国知何日  為事人間在黒頭       留別 依 田 帯 水(勉三)
「鴻恩を遺却して又北遊す/弟兄相対し涙空しく流る/男児国に報いるを知るは何れの
日か/人間事を為すは黒頭にあり」 
   斬獅斃鷲何難在  北地張権任我儂
   朝旭迸来雪散日  共看独立玉芙蓉      十勝人 狸    堂(渡辺勝)
「獅を斬り鷲をたおす何の難きかあらん/北地の張権我がともがらに任ぜよ/朝旭ほと
ばしり来って雲散ずるの日/共に看ん独立の玉芙蓉」
   欲報邦恩決北遊  辛酸常楽我家流
   此行元是雖可賀  離恨猶在落日頭        送別 石 泉 堂 主 人(佐二平)

大正12年元旦に勉三翁が作った漢詩です。「古稀」を過ぎ、国難の到来を予見
した
作品と言えます。
  送迎古稀又一年 送迎す 古稀また一年
  回看往時転凄然 往時を回看すれば うたた凄然
  戦余報国猶如沸
 戦余の報国 なお沸くが如し
  呼起同胞長夜眠 呼び起こさん 同胞長夜の眠りを


◎飢 餓
(用意した米が払底=リクの作った大根葉など入り粥)                   
  17年(1884)勝“落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋”と詠めば、勉三“開墾の始めは
        豚
とひとつ鍋”と訂正する。

◎二人の子息の死 明治16年リクとの間に生まれた俊助(2年2ヶ月)を義姉ふじに
預けて移民します。第1陣13戸、27人帯広へ移民します。しかし俊助は5ヶ月半後の9月
7日に死亡します。大沢墓所に勉三とリクの間に挟まって俊助(如雲禅童子)が眠ってい
ます。これはリクが亡くなった昭和10年ごろ、依田周作さんらの配慮で「隠居」の墓域
に建てられたのです。
 二人目は後妻サヨとの間に産まれた千世(ちよ)です。明治29年の日記を読みますと、
切々悲しさが伝わってきま
。「医師の療法も、胃病なら絶乳と決めてかかり、何の処方
もされなかった。彼は千世の空腹を思い、我が身を切ら
れる思いがしてならなかった」と
いったような表現がされています。(29.6.7生〜8.6没)

◎早くも3戸4人逃亡。10月鈴木親長・カネ・弟の文三郎入地。カネは子供に勉強を教える。
この中に南伊豆町出身山本金蔵がのち大豆の種を札幌から送り、帯広の第一安定作物と
る。
野火、蚊・ブヨ・アブ・バッタ、マラリヤ、長雨・旱魃・冷害、輸送難などに悩まされる。
  

◎倒産を決意(大正5年)

     
晩成合資会社経歴並びに述懐       業務担当社員 依 田 勉 三
 
 当晩成合資会社は年を積むこと既に四十年にたらんとしてその事業は振るわず、投資金
四万五千円(その実は三万円未満)は一金の配当もなく、なおかつ十五万円の負債となれ
り。そのうち事業に投資せしものありといえども多くは利子の長年月積累せしものなり。
しかれども開墾において三百五十町歩あり。故にこの事業の国家に対するはけだし尠少に
あらず、これ諸君の国家に対する功績の大なるものなり。しかりしこうして負債累々とし
て倒産に至るは業務執行者勉三不肖のいたすところ、その罪軽からず、小にしては諸君に
対し、大にしては国家に対し万死も謝する能わざるなり。そのすでに今日に至らざるに、
業にすでに解散または他の方法を講ずべきものなるを、いたずらに今日に至り。永く諸君
を苦しめ、自己もまた白髪老躯に及ぶもまた故なきに非ず、これあたかも死児の齢を数え
るごとしといえども、しばらく諸君の清聴をわずらわさん。
 抑々老生の期すところ途別水田百五十町歩あり、この地成功せば千五百俵の収入は容易
なり。将来は二千俵以上収入すべし。これを一俵五円とすれば一万円なり。この事業は十
五、六年前より計画し、すでに試験に好果を得しも時季至らず。またバター二万斤の製造
を企画せり、これを一斤六十銭とすれば一万二千円なり。故に会社は一時無配当の不幸に
遭遇するも、もし他に負債嵩まざるときは前記数項のほか、自然、帯広の発達に伴い、市
街に来往する者四方より麋集(きんしゅう=寄り集まる)して畑地も変して宅地となるの
利あるをもってここに奮闘せしも、地価の騰貴よりも利息の足力はより以上速かにしてつ
いに今日に至る。しこうして時季至らずとは。牧場未だ基礎立たず、故に牧場に着手せり、
牧場やや体面を具うるも未だ二万斤のバターを作るには至らず、期すでに遅し。早々水田
に着手せしは僅かに昨年なり。これを今、明二カ年継続して成功するも千五百俵の収入を
得るは今より七、八年の後たるべし。これついに利息の速なるは労働歩行の及ばざるとこ
ろなり。今や悔るも及ばず、また十年前に今日のごとく解散せんや、すなわち明治三十六
年四月の決議を決行するものなり。この時すでに負債七、八万円ありしと思えり。その後
明治三十九年度において二万八千円の財産を売りしも、残余の財産は三、四万円の顧客な
し。これ故に逡巡して断行せず。荏苒(じんせい=のびのび)今日の大負債となる。しか
れども地価及び財産もまた増加して十二、三万円となれり。すなわち本社致命の秋なり。
偏に諸君の寛仮憫諒を仰ぐ。

◎佐二平語録


     
大正八年、晩成社稲作成績表を読む    社員 依田佐二平評
 
 わが常住の伊豆国は暖地なれども、古来農家の方言に「水田は水の懸引のみを見て、
作の巧拙を知る」と言う。わが隣接なる池代区のごときは、天城山麓に位し水清く潅漑の
水利余りあり。しかれども多量の水を用いず、毎田多くは寄り水となし二寸あるいは三寸
の水を湛えて日光に温めるを例とす。故に水回りは朝夕怠らず、かくのごとく数十日にし
て穂初めて出でて熟稲となる。水十分なればとて掛け水する者なし。偶々これあるも、水
口必ず冷えさばいと言う。素立ちとなりて出穂せず、皆農事を知らざる者として農者の群
に加えず。稲作は暖気によりて成熟するもの故、冷気多き土地は出来うる限り水を温むる
手段を施し、用水路近き水口には特に田の畦を迂回し、回り水口となし、または排水の出
口を閉塞し、水口のみ開放し、用水の下流を支え、これを終日の日光に曝して暖を取る。
またある老農の談に「水口は水を必要とすれども過量の水を用いるべからず、ただし亀裂
を生ぜらるを適度とすべし」云々と。
 今、晩成社の稲作成績表を読むに、坪刈りの数量と実収穫の量とは差異はなはだ多し。
坪刈り例のごとく実収額の達せざるは何れの地方においても普通とすといえども、その差
甚大なるところをもって察すれば、耕耘届かず、水回しに整一を欠き、作毛の不揃いなり
しは目前に見るがごとし。あるいは多数の反歩を耕作せしがため培養耕作の手不足による
か、すべて過度の仕事は労多くして益少なし、特に農事において然りとす。途別農者、農
事を知るや否や。
 農商務省の調査によれば、本年の水田収穫は古来稀なる豊作なりと。明年度もかくのご
とく収穫予想し難し、乞う注意あらんことを。
 
◎途別水田の碑
 徳源碑 徳源地 東 百   間 西斜 百五間  大正九庚申の歳 依田佐二平建
         南二百五十四間 北二百二十間           
 
 水田碑 途別水田碑 
 
元禄中に伝う。長坊なる者、開国の志有り、阿寒山麓隠瀬奈牟を耕す。三年(一六九〇年)
米菽(米や豆)始めて実り、乃(すなわ)ち携え帰りて、其の師佐藤信景に告ぐ。信景亦
夙に(早くから)開国の志有り。是に於て同十一年(一六九八年)門生を率いて与(と)
倶(とも)に来耕す。同十四年(一七〇一年)開国新書を著わし、其の所産を松前侯に献
じ、且つ疆(キョウ)を拓く(開墾する)ことを請う。許されずと雖も其の土の米粟に適
するを知る可きなり。
然れども札幌農黌(農業学校)は水田危険の説を唱え、是を以て(そこで)天理農法主唱
者小柳津代の如きは、遂に今の農学者は農学を知らずと絶叫するに至れり。慨嘆に堪えざ
るなり。
我が農場は二十余年前挿秧し好果を得たり。然れども未だ人情に適さざるかと疑い、而(し
こ)うして廃降し、而うして十年前再び試みて四歳、農民離散し僅かに二戸存し、乃(す
なわ)ち六年前に及びて弟勉三躬(みずか)ら田圃に出で、傭人に伍して労役し、以て今
日に至る。嗚呼、吾人(我ら)嚮(さき)に以て尚早と為すも、信景往昔既に之を試みて
本道の大計を樹(た)てり。今や欧州の大戦に遇(あ)い、而(しこ)うして糧食問題を
惹起し、米穀の需要益々急なり。若(も)し当年(あの時)松前侯をして信景の言に従わ
しめば、今日世を救うに蓋(けだ)し大者有らんに。吾人(自分)茲に感ずる所有り、其
の偉績の煙滅するを恐れて録(ろく=記)す。
                      大正九年庚申九月 依田佐二平 



「草分け」って、言葉にすると簡単ですが、人間未踏の地に入るということは
想像を絶することばかりです。その頃、帯広はアイヌの人が住み、1人和人(日
本人)がいましたが、農業者ではありませんでした。草を刈り、初めて鍬を打ち
下ろす大地、木の根っこも掘らなければ畑になりません。

 また、@種を播いたとしても、作物が土地に順応(病虫や天候)するまでに時
間がかかるのです。試行錯誤の連続です。
 例えば、勉三翁は稲を育てるのに川の水を引き込む途中にボイラーを置き、温
めてから田圃に水引きします。でも実ろうとする頃、早霜で全滅しまうのです。
ある時、土狩地方の品種を取り寄せて作りますと、霜が降りても生き残っている
穂があります。その種を選んで次の年に植えつけると、霜に大丈夫なものが育つ
ようになるのです。これに「香早稲」(においわせ)と名付けます。
 Aなんといっても、帯広は海岸線より奥地です。その頃は道路などありません
でした。十勝川をアイヌの舟を使っての交通が主でした。往復するに3日間を要
したということです。すると作物の値段と輸送費とでマイナスとなり、「くたび
れ儲け」となりました。農作道具など修理するのに山を越えて札幌、海上を函館
まで運んだのです。また、函館で丸成牛肉店開業時には、各地に中継牧場を設け
たり、保管場を確保するのに苦労しました。そして生花苗から20頭ぐらいを海
岸道路や山中を追って半月以上を費やして運ぶのです。これでは採算がとれるわ
けはありません。
 Bぶよ、蚊、バッタ=水路など完備していませんから、蚊やぶよが多く発生し
ます。ですから夏でも長袖や顔にかぶり物をして作業しました。その頃はイナゴ
が大発生し、作物を食べ尽くしました。
 C当時は和人が鹿の角集めの「野火」が放たれました。作物や家まで焼かれる
始末で、ある程度の所の草を刈り、中央から外へ風を送って防御する方法を使い
ました。
 D役所、郵便局、警察、病院もありませんから、病気をすると困り大津まで運
んだりしました。現地ではあまり死者はでませんでしたが、健康を害して内地へ
帰ると死ぬひとがありました。弟文三郎や義兄などです。
 E開拓記念日を7月15、16日に開いていることも特記すべきです。この時
餅をついて振る舞いましたが塩餡で、砂糖を入れて甘くすると翁は不機嫌になっ
たと言います。また、途別農場が成功して小作米400俵もあがるのに勿体ない
と言って、主にビルマ?やコテボ(白色で大豆に似た豆)など、値の安いのを混
ぜさせたと、八百氏の後日談にあります。
 F翁は柿などご馳走になると他人が食べた種まで持ち帰り、それを植えて地域
に役立てたいとしました。また、生花苗の山に楊子の原料になる木を植え、職人
など収容できる繁栄する村作りを考えた。

この欄は、どんどん書き足していきますので読んでください。

 こぼれ話=6話 7話 8話
@自己紹介にかえて AーA.伊豆人の性質 AーB.松崎町が多くの偉人を出すのは?
B勉三って、どんなひと
  Bー私と翁の出会い
  Bー
A.略歴年表  

  BーB.生い立ち
  BーC.十勝開拓への使命感
BーD.苦難の道
BーE.水田所の宴(晩成社は成功者?)
C 結論として
    皆さんへのメッセージ
D付録、松崎町・下田北高にある関係写真  渡辺勝日記 BーF.語録。こぼれ話   こぼれ話6話 FG
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