C 結論として

 日頃尊敬している皆様方に、浅学非才な私が大変生意気なことを申し上げ、申し
訳なく思っております。ここで昨年末に亡くなられました、伊豆の詩人(子浦生ま
れ、松崎と縁のある)とも言うべき、石垣りんさんの「地方」という詩を紹介した
いと思います。

   「地  方」       石 垣 り ん
  私のふるさとは
  地方、という所にあった。
  私の暮らしは
  首都の片隅にある。
  ふるさとの人は山に木を植えた。
  木は四十年も五十年もかかって
  やっと用材になった。
  成人してから自分で植えたのでは
  一生の間に合わない
  そういうものを植えて置いた。
  いつも次の世代のために
  短い命の申し送りのように。
  もし現在の私のちからの中に
  すこしでも周囲の役に立つものがあるとすれば
  それは私の植えた苗ではない。
  ちいさな杉林
  ちいさな檜林。
  地方には
  自然と共に成り立つ生業があったけれど
  首都には売り買いの市場があるばかり。
  市場ばかりが繁栄する。
  人間のふるさとは
  地方、という美しい所にあった。


 私は、この詩にひどく感激し、地域を考える主題歌だと思いました。そして私
が主宰していた、ミニコミ誌「ほっとらいん」に掲載したいと手紙を出し、許可
をいただいた経緯があります。
 あれから20年近くしか経っていませんが、国家の下支え、都会の母親ではな
く、「地方」は粗大ゴミになり果てようとしています。りんさんの詩のように都
会では、財産が売り買いの商品になりますが、逆に地方は先祖が積み上げた家屋
敷、田畑、山林までが「ゴミ」にしかならないのです。このままでいくと、伊豆
は10年保たず、無人化、壊滅してしまうのではないでしょうか。
 誰にも否応なく死は訪れます。老夫婦の世帯も、やがてどちらかが亡くなり、
一人になります。行き倒れもあり得ますし、救急車を呼ぼうにも受話器まで手が
届かず死ぬことだって予想されます。そうでなくても入院させられ、集中治療室
で酸素マスクで口を塞がれ、思いを話すことなく死を迎えるのが普通となりまし
た。
これも「孤独死」といえなくもありません。
 やり残した仕事、大事なものの在処、家屋敷、耕地、山林の地境、自分の生き
様を伝えられない時代です。緊急な場合には健康保険証の在処さえ分からないま
ま入院、病院は浮浪者のように扱うか分かりません。また、家は1年住まなくな
ると、たちまち老朽化します。特に田畑は、荒れ地になってしまいます。先祖が
苦労して積み上げた財産が無価値となり、お荷物になってしまうのです。
 私の言いたいのは、定期的に訪れ家に上がってもらう直接触れあう隣人、友人、
知人を複数確保したいものです。
「自分史」や「ネット」を勧めたのも、自分の
生き方を見つめ直し、自分の思いを次世に伝える義務があると思うのです。それ
を「輪廻転生」という、「再生、循環」につなげられなければ、人間の一生とは
言えません

 そうは言っても「地方」が、「持続可能」な循環する暮らしを取り戻すのは簡
単ではありません。行政や学校など産業開発研究機関となり、働き場作りをして
もらいたいと思います。そして個人も職業意識の持ち方、嫁取り婿取り、家族関
係がどうあるべきか考える必要があります。いま朝ドラ「わかば」が放送されて
いますが、あの家族関係、セリフ回しは素晴らしく参考になると思います。
本来
社会は「相互扶助」が原則です。大きな社会(市町村合併以前の問題)でなく、
顔を知り合う地方こそ容易く実現可能なのです。二宮尊徳のいう「推譲」(他人
であっても後世に有効に譲り渡す)ことを真剣に考えなければと思います。
 我田引水ではありすが、この勉三翁研究の中に大きなヒントが隠されているよ
うな気がします。世のために親族、身と心を引き裂くようにして開拓に打ち込む
勉三。私財を投げ打ち、責任をもってする道路、教育、産業。消滅しそうな家が
あれば縁組みする一族。現在民主主義の「滅亡の自由」よりはるかに気がきいて
いると思いませんか。


 私には人生の師と仰ぐ方が3人います。中学時代の恩師須田昌平先生、勉三研
究家萩原実先生、そして伊豆を愛する会長荒尾達雄氏です。荒尾氏は「幾つもの
時代の変革に、伊豆は立ち会った」というのが自慢で口癖した。
 今やIT時代、これに伊豆人はどう立ち会っていくか。そんな課題が与えられ
ている気がしてなりません。私は、物質生活は低くても(絶えず向上は忘れない)
相互扶助の精神を基本とする社会、生産性のある、三世代が暮らせる「実践学」
を世界に発信することではないかと思います。
 先人が大変な苦労をして積み上げたのが現代です。私は「依田勉三」という人
物を通して、私なりの見方、考え方を勉強しました。話し下手ですので、思いが
届かなかったと思います。ご静聴、ありがとうございました。




 長八や三余を育てた本多正観上人は、畳表の原料「琉球」(藺草)を他地より
移入して「松崎表」という産業にまで仕上げます。
 土屋宗三郎は、「恕」(じょ=心ひろく許す)を基本としますが、武士に対抗
するには業間の三余(書を読むはまさに三余をもってすべし)からとったものを
号にします。その三余とは
「冬は歳の余り、夜は日の余り、雨は時の余り」で、
いわゆる晴耕雨読、本業を疎かにすることを戒めた「実践学」でした。また、佐
二平は何処より早く発芽する桑葉をもって、世界の早繭(種繭)相場を松崎で作
します。そして二宮尊徳の教えは、その地、人心に合った「報徳」を説き、改革
を推進しました。




 須田昌平先生は
「天才は見た(読む)だけで理解できるが、普通のひとは書き
写して覚られる」
と言いました。私も、先生のいう「天才」ではありませんから、
「書き写して覚える派」です。「風吹け、波たて」という小説(ネットで公開中)
は、日記など丸写しにして年ごとにファイルし、2,600枚以上の原稿を書き、
ワープロ打ち、校正、発信と一人作業をしました。3年以上かかったでしょうか。

 ひとはこれを聞きますと驚きます。私は、この間にあっても普段通り百姓の手
は休めません。雨が降れば別ですが、昼間、机の前に座ったことがありません。
 いま振り返ってみて、どうして完成したか不思議な気がします。「自分がしな
ければ」という「使命感」があれば、我慢もできますし、苦しいという感じもな
く、やり遂げることができるのです。
 本当に、勉三さんの人生は、息の詰まるぐらい「苦難」の連続でした。でも日
記のどこにも「苦しい」と思わせる言葉は使っていません。何としても十勝野を
穀倉地帯にして国家に尽くすとの「使命感」を持っての挑戦行動なのです。

 総ての人に天は、「やってほしい」という、多くの問題を投げかけています。
これも「好奇心、興味」という、心のアンテナを張ってないと頭の上を素通りし
ていきます。

 郷土、その文化・歴史を愛せないひとは、自己否定することと同じと思います。
私は、自分が生きたという証を世の中に残して死にたいと思っています。皆さん
も自分自身を歴史的に捉え、次の世の中に継いでいく使命があると思います。そ
うでなければ犬死にと同じです。ぜひ「自分史」を書いていただきたいと思いま
す。そうすることで家族や知人が「あなたの生き様」を納得し、存在感が伝わる
のです。また地元から出た人物、親のことを、その周囲や時代背景も入れて研究
していただければ、自分のため、社会のためにもなることができます。

 この「ネット講座」は、意見を承ったり、質問ができるようになっています。
多くの方が参加され、より確かな勉三翁の人間像を築きあげたいと思います。皆
様も「依田勉三の語り部」になってください。

@自己紹介にかえて AーA.伊豆人の性質 AーB.松崎町が多くの偉人を出すのは?
B勉三って、どんなひと
  Bー私と勉三翁との出会い
  Bー
A.略歴年表  

 BーB.生い立ち
 BーC.十勝開拓への使命感 
BーD.苦難の道
BーE.水田所の宴(晩成社は成功者?) 
C 結論として
    皆さんへのメッセージ
D付録、松崎町・下北高にある関係写真   渡辺勝日記 BーF.語録・こぼれ話  こぼれ話6話 FG
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