B 勉三って、どんなひと

 B.生い立ち、体質、学問
   心身(胃病、脚気)とも弱い、劣等感のひと? 身長155aで小柄

◎体 格

 皆様は、勉三翁についてどんなイメージをお持ちでしょうか?
一般的には「身体は大きく頑強で、強靱な精神力の持ち主」と、思うのではないでしょ
うか。しかし、丹念に調べていきますと、ことごとく違ってくるのです。
 まず身長は5尺2寸(約155p)小柄、痩せ形だったと言います。一時期は日記に
16貫(約60s)はあったようですが…。

◎健 康
 それに病弱だったようです。日記に北海道開拓を思い立った動機として「胃弱となり、
脚気症にも2ヵ年間悩まされ、とても学問では成りがたく思いまして農業をいたし、身
体を健やかにして国に尽さんと思いました」と、一般とは逆転の発想をしています。
 けれど、開拓に入ってからも風邪と下痢は日常で、よくぞ73歳まで生き抜いたこと
が不思議に思えます。
 ある時は病院へ痔疾の治療に行き、血がほとばしって医者の着衣を汚し、後日卵をも
って詫びたことがありました。また、東京で買った痔疾治療器を使ってで自分で治療し
たりします。そして眼病にかかり、失明状態となって妻リクに口述筆記させたりします。


◎境 遇
 生家は現在の大沢温泉ホテルで、建物は築後300年、伊豆では韮山江川邸の次ぎと
いわれる古い木造建築物で、有形登録文化財に指定されています。書物では70万円の
資産家とあり、相当裕福な家に生まれたことは間違いありません。また、昔は土地持ち
なら年々「年貢」、お金には「利子」が入りますから、次男であっても何をしなくても
食べていける家柄なのです。


◎人 柄
 人間には公私、表裏があって一概に論じることはできません。しかし日記を読むと、
優しい心根の持ち主であることが分かります。例えば北海道から帰る途次、松崎港へ入
り塗屋(依田善六)に帰郷報告、そして老母のいる家から寄り、大沢の姉の家に立ち寄
ってから実家に戻っていることからも知れます。また、鈴木真一の家を我がもの顔にし、
伯父叔母に甘えていた様がうかがわれます。どっぷりと甘えることで、厳しい開拓のエ
ネルギーを得ていたように思えます。
 リクとの離婚も愛ある別れでした。猫をもらって帰るシーン、健康を理由に別れます
が、彼女が伊豆へ着くまで気をもむ心が日記に見えます。また、それ以後東京にいる彼
女を諭しに行ったりしています。

◎一 族
 最近私は、勉三母「ぶん」生家の系図を見ました。ぶんは7人兄弟姉妹(13人説あ
り)の一番下でした。一番上の姉は江奈の大下へ嫁ぎ(石田礼助の祖母、分、本家?
=両家は一方に男がないと男をトレードする)ます。長男の真三郎は金沢大屋、次男は
江藤家へ。次娘が目が不自由なことから婿をとって家を継がせます。3女は隣家阿波屋
へ嫁ぎ、夫定蔵(清左衛門)が我が国最南東端である「南鳥島」を発見します。3男は
下田鈴木家に婿入り、のち横浜で下岡蓮杖の弟子となる鈴木真一です。その下がぶんで、
幼い頃父が亡くなったため大下で育てられ、大沢大屋へ嫁入りしたとも伝えられます。

 旧時代では「大屋(庄屋系)」間で、何代も従兄弟(従姉妹)同士の縁組みがなされ
ています。見方によれば「階級意識」であり、血族結婚として嫌われます。でも、考え
方を変えれば、地域や一族繁栄の知恵と言えます。極言するなら現在地方が衰微したの
も、このような適材適所に配置する知恵が失われたからだと思うことも出来ます。
 

◎始  祖(武田の武将から豪農へ)
 依田家の始祖は、木曾義仲の後胤飛騨守義胤と言われます。ついで甲斐の武田家に仕
え、勝頼の時敗れて伊豆へ落ち延びます。松崎の地には、まず伏倉、そして峰輪の馬場
(現哲男)家、最後に今の大沢に落ち着いたと伝えられます。大沢の記録には寛永8年
(1631)3月18日没「清光軒幹一庭錦栄居士」ではないかという。だが、名をは
ばかってか俗名はない。なおこの人物は、勝頼に仕えて駿河、遠州地方の諸城を守った
という常陸介(ひたちのすけ)新太郎信蕃であったかも知れないという。
 
 依田家は武田信玄に支える一族であった。その子勝頼の時、信長との戦いに敗れ、始
祖は命から
がら松崎へたどり着いた。追っ手から逃れるため格好な場所はないかと探し、
那賀川をさ
か上り、まず伏倉の関家にそれを求めた。だが海に近いことがネックとなった。
またそこを
一里ほど上り、峰輪の豪族・馬場美濃守を草鞋の脱ぎ場とした。そこを足場にし
てついに現在の大沢の地を探し当てたのだという。
 馬場家にはその時、叺(かます)に詰まったものを天上裏に上げ、「芋の種が入っている」
と言ったが、軍資金ではなかったかと伝えられる。
「風吹け、波たて」より

 (下の写真は大沢依田家墓標に刻まれたものです)
 余談ですが、県知事をした山本敬三郎の父が松崎町出身であることをご存知でしょう
か。道部境に「水道橋」がありますが、その下流の丸高駐車場辺にあった「油屋」が彼
の父石田純治の生家なのです。のち田子「カネ忠」の養子、2代目山本忠助となるので
す。また、兄は熊次といい大沢隠居を継ぎ、佐二平娘つると縁組みをもちます。
 また、すべてにわたって運命共同体である松崎依田家(塗屋)は、魚釣りの好きな3
代目が隠居がてら分家したのが祖となったと言われます。


◎生い立ち
嘉永6年(1853)黒船到来の年生まれ。大沢の善右衛門(名主)の3男。長男佐二平の
        すぐ下に庄助がいたが早世、実質的に2男。佐二平と年齢差7歳。そ
        の間に姉2人。幼名久良之助。11人兄弟姉妹の6番目。

 庄助が幼くして亡くなり、その間姉2人が生まれましたが、7年間を経て出来た男児
です。両親はもとより周囲から寵愛されたに違いありません。そのため精神的にも弱く
育ったように思えるのです。
 
決定的なのは10歳のとき母、13歳で父、14歳で師三餘が亡くします。その後は
兄佐二平さんが父代わりとなって育ててくれます。兄は万能のひとですから、なんとし
ても超えたたいと願ったはずです。その劣等感をバネに学問へ傾倒したものと思われま
す。
なお、両親が亡くなった時、「当座はほとんど寝食さえも忘れて両親の仏前に端座
し、冥福を祈りながら写経に余念がなく、そのいたいけな姿に一家一族の人々はみな涙
を誘われた」と言います。また、翁の北海道日記にも1月30日の父命日に、自ら料理
の仏膳を供えたことが書かれています。

 黒船到来の嘉永6年の生まれも、考えすぎかも分かりませんが、こういう節目に生ま
れると、のちに何らかの影響があるよう思えます。以後、昔語りが何回かされるうち、
心に何らかの作用が生じるはずです。翁の人生においても西郷頼母、福沢諭吉、故二宮
尊徳、ワッデル、ケプロン、鈴木真一、江原素六、函館大経(競馬)など、多くの歴史
的人物が大きくかかわってきます。


◎学 問
安政6年(1859)土屋三余(那賀・義伯父)の三餘塾入門。勉三と改名。(7歳)
文久元年(1860)5男善吾生まれる。久良之助の名を継ぐ。のち晩成社現地副社長。
  3年(1863)母ぶん没。(11歳)
慶応元年(1865)父善右衛門没。(13歳)
慶応2年(1865)師・三余没。(14歳)
明治3年(1870)横浜か東京へ。(沼津、共慣義塾?説あり=研究余地)(18歳)
  5年(1872)8月江奈の謹申学舎入門(20歳)(会津藩家老西郷頼母が塾長)
  7年(1874)8月31日慶応義塾入学。(22歳)
  8年(1875)この頃「ケプロン報文」に出合い、北海道開拓を決意。
        同年末?、英国人牧師のワッデル塾入門。洋学を勉強。
       
(ワッデル来日明治7年)渡辺勝・鈴木銃太郎とワッデル塾で知る。
     9年(1876)1月31日慶応義塾を正式に退学(理由=語学修業)。
        9月脚気、胃病を理由に伊豆へ帰る(この時渡辺勝同行)
 これは三餘塾資料館にある、入塾することを願う勉造(三)さんの署名です。「七」
とだけ書き、「歳」が抜けています。文字の曲がり具合など、かなり幼い甘えん坊だっ
 なお、中川小学校では「三聖物語」という劇をするそうですが、冬瓜に顔を描く場面
です。もしあれを勉三の悪戯だとしたら、積極的なふざけではなく、塾に慣れないため
手持ちぶたさからの行為に思えます。でも、こういう劣等感の人物は、少しの刺激で大
きく育つのです。

◎西郷頼母の謹申学舎
 まだはっきりしないのですが、18歳で横浜、東京へ出ます。また、沼津説があり、
今後の課題だと思います。忘れがちですが、沼津は維新後になってから出来た「沼津兵
学校」があり、教育的レベルの高いところです。次ぎに20歳の時、江奈に佐二平さん
たちが設立した「謹申学舎」へ入ります。この塾長は会津藩家老だった保科(西郷)頼
母です。会津の悲劇、一族(女性)が21人、官軍に攻められて自刃する一家です。妻
八重子の詠んだ「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」の歌
は有名です。江奈へ来たとき頼母は、子息吉十郎と後妻きみを伴っていたと伝えられま
す。
 勉三翁の伯父鈴木真一は下田へ婿養子に入り、高橋姓から鈴木姓になったひとです。
その後妻は頼母の妹です。なお、頼母は函館戦争に参加し、榎本武揚の北海道共和国論
に出合っていたと想像され、これも北海道開拓の伏線となったかも知れません。


◎報徳思想
 またその頃、伊豆地方も二宮尊徳の「報徳思想」が普及していました。幕府は尊徳に
北海道開拓をさせようとしていたこともあるようで、この点も見逃せないと思われます。

◎慶応義塾入退学と、ケプロン報文
 次いで福沢諭吉の慶応義塾です。皆様にお渡しした資料に「三田評論」のコピーがあ
ります。これは自署したカードで、「足柄県伊豆国那賀郡大沢村15番地、佐二平弟。
明治8年8月=年齢22年4月(22歳4ヶ月=
在塾時)。入社(塾)年月=明治7年
8月31日。明治8年8月在塾=2等。明治9年1月31日退校=1等、語学修業のた
め」と書かれています。これは寄稿依頼からカードの存在が知れ、明白な入退学の時期
がつかめました。「使命感」の項で述べますが、福沢諭吉理論との出会いは北海道開拓
へと駆り立てます。それにこの頃出合った「ケプロン報文」により決定的なものになり
ます。

◎ワッデル塾入門
 そしてワッデル塾入門です。ここで晩成社幹部となる渡辺勝、鈴木銃太郎と運命的出
会いをします。その時期ですが、銃太郎が明治8年で一番古く、続いて勉三が8年末?
か9年初頭、渡辺勝は明治9年初頭の日記に「勉三を知る」とあり、勉三は9年1月末
正式に慶応義塾を退学していますので、併講も考えられます。
 このワッデル塾入門ですが、明治3年説と6年説があります。だが、私が訪ねた旧牧
師からワッデルの来日は明治7年33歳の時だと教えられました。聞くところによれば
北海道でもこれを指摘する方がいたそうです。

 ところで中川小学校の裏庭に「三聖」のレリーフがあります。三聖とは土屋三余、依
田佐二平、依田勉三の3者をいいます。その勉三翁の説明に「明治3年、ワッデル塾」
とあります。これは明白な間違いです。


@自己紹介にかえて AーA.伊豆人の性質 AーB.松崎町が多くの偉人を出すのは?
B勉三って、どんなひと
  
Bー私と翁との出会い

  Bー
A.略歴年表  

  BーB.生い立ち
  BーC.十勝開拓への使命感 

BーD.苦難の道
BーE.水田所の宴(晩成社は成功者?)
C 結論として
    皆さんへのメッセージ
D付録、松崎町・下田北高にある関係写真  渡辺勝日記 BーF.こぼれ話序文   こぼれ話6話 FG
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