B 勉三って、どんなひと

 C.十勝開拓への使命感
     弱い心身と、強い劣等感、身長5尺2寸(155a)小柄なひと。
     
帯広オンリーでなく、各地・他業種にわたる
馬鈴薯澱粉工場、自家用ビール、鶏・羊・豚・馬(軍馬、乗用馬、競馬)・牛繁殖改良、
牛の導入、
牧場を開く、ハロー(西洋鋤)導入、ハム製造、玉蜀黍、養蚕、リンゴ・落
葉松・ウルシ
・松・杉植樹、ビート・粟・黍・麦・蕎麦・大豆・水稲、製藍所建設、屠殺場・牛
肉店
開業、木工場、薄板製造、測候所に敷地を提供、亜麻製糸工場、大麻耕作、バタ
ーと練
乳、牛乳、椎茸栽培、缶詰工場(牛大和煮・牛味噌・えび等)、藺草栽培(畳表
編笠の家庭副業奨励)など。架橋・道路・排水溝・築港・教育・神社・アイヌとの交流など
に尽力。なお漁業(借金の形に漁業権を獲得)、炭坑・金鉱探索、家賃収入を得る。
十勝築港(生花苗沼改良)に奔走。

農場、営業地=帯広、売買、途別、生花苗(晩成)、大津、函館(丸成牛肉店)、当
別(トラピスト男子修道院付近)、七重畜産株式会社長、東北・関東地方へ小作人、作
業人募集に歩く。

   
使命感=自分に課せた任務、「なにくそ」の精神
 これから勉三さんの使命感の成り立ちについて話したいと思います。

明治7年(1874)8月31日慶応義塾入学。(22歳)
  9年(1876)1月31日慶應義塾退学。語学修業のため、英人牧師ワッデル塾に入
        門。(ワッデル来日は7年)
        この頃「ケプロン報文」に出合い北海道開拓を決意。渡辺勝・鈴木銃
        
郎(ワッデル塾出身)を知る。脚気、胃病を理由に伊豆へ帰る。
        (この間、佐二平の命で富岡へ、養蚕研究)
  10年(1877)兄佐二平を手伝い豆陽学校(下田北高の前身)創設に尽力する。
  12年(1879)豆陽学校(下田北高の前身)が開校され教諭となる。勝は教頭。
        従妹リク(善六妹)と結婚。
  14年(1881)1月北海道開拓を正式に表明。単身北海道踏査。田内、内田らの十
        有望論に出合う。
  15年(1882)晩成社を結社。銃太郎と移住地調査。7.15オベリベリ(帯広) 開拓地
        決定。

 伊豆地方は、農業の神様としての二宮尊徳(金次郎)の
「報徳精神」が存在している
所です。中川小学校に
「至誠」=まごころ、このうえなく誠実なこと、という佐二平さ
んの書が額になっていますが、尊徳がよく使った言葉です。勉三さんは起きると必ず唱
えたという
「報徳訓」とは次ぎのようなものです。
「父母の根元は天地の命令にあり、身体の根元は父母の生育にあり、子孫の相続は夫婦
の丹誠にあり、父母の富貴は祖先の勤功にあり、わが身の富貴は父母の積善にあり、子
孫の富貴は自己の勤労にあり、身命の長養は衣食住の三つにあり、衣食住の三つは田畑
山林にあり、田畑山林は人民の勤耕にあり、今年の衣食住は昨年の産業にあり、来年の
衣食住は今年の艱難にあり、年々歳々報徳を忘れべからず」
というのです。
 意味は、今あるは祖先の力のたまもので、子孫の富貴のため夫婦仲良く仕事に励みな
さい。今日の生活は昨年の仕事ぶりにあり、来年の生活は今年の我慢にあるのだ。と、
「忍耐」の根本を説く、一家繁栄の継続を願う内容なのです。
 尊徳は幕臣に登用され、北海道開拓を依頼されたといい、このことも依田一族を刺激
していたかもしれません。また、郷里江奈「謹申学舎」塾長西郷頼母は函館戦争へ参加
しており、榎本武揚の「北海道共和国論」など聞いていたかも知れません。
 
 明治7年8月、勉三さんは福沢諭吉の慶應義塾へ入学します。諭吉は西洋に学び「独
立自尊」を基本とした教育者です。「本邦の人口が年々激増して耕地と相伴わず、今に
して不毛の地を開拓せねば食糧欠乏せん」
と説きました。これは北海道を示しているよ
うです。

 こんな時、
「ケプロン報文」に出合います。「そもそも本島(北海道)の広大たるや
アメリカ合衆国西部の未開地に等しく、その財産は無限の宝庫である。…かかる肥饒の
沃野を放置するは、日本政府の怠慢と言っても過言ではない。随意に移住させるべきで
ある。自他のために開拓し、その土地を守る者あらばこれは国家の宝である。もし放置
するなら外国がこの地を侵略するであろう。それは必ず後世に悔いとなろう。このわが
探検は先例になく、日本国民にとっても一大先駆というべきものである」
と言い放つの
です。

 勉三翁はこれを見て発憤、北海道開拓を決意するのです。当時、脚気と胃弱で苦しん
でいました。そこで「
とても学問では成りがたく思いまして、農業をいたし身体を健や
かにして国に尽くさん」
となるのです。普通なら「体が弱いから学問」ですが、逆転発
想の持ち主でした。そして
「ますらおが心定めし北の海、風吹かば吹け、波たたばたて」
と詠い、不退転の心を表現します。

 また、家を継ぐ長男でないため、自分を無用者と称します。明治14年、単独北海道
踏査した「北海紀行」に
「わが郷里のごとき人口過多の地より、これを北海道のごとき
無人の地に移植し、その欠乏の万一を補わば、余がごとき天下の無用者変じて有用の者
ならん」
と書いています。

◎三幹部(勉三、勝、銃太郎)の出会い
 ワッデル塾で知り合うが、塾入門は鈴木銃太郎が一番古く明治8年である。続いて8
年末か9年正月に勉三、勝は明治9年正月である。

◎晩成社規則

 晩成社結成の
「規則」には「北海道の開否は、わが全国の形成上重大の関係ある所な
れば、国民の義務としてその責任を担当せざるべからず。この社を起こす所以にして、
まただが同胞人民の賛成を請う所以なり。…純益割賦のとき株主はその二割を取りて満
足し、その余はことごとく皆積み立て、小にしては本社移民のため、学校、病院、道路
および救恤などを補助し、大にしては国家の義挙に応じ…」
と高邁な文章となっていま
す。
 なお、勉三翁がが入植出発前、生家(大沢)で乞食姿の写真を撮りますが、乞食に成
り果てても開拓に打ち込むという
「有言実行」のポーズです。このように翁は、ことあ
るたびに、言葉を支えに生きていたことが分かります。


 ところで、十勝を開拓地と決めたのは内田瀞、田内捨六(札幌農学校一期生)明治十
四年道東地方の「内陸実地踏査記録」です。
「十勝は最も牧畜に適する所」「いま十勝
平原25里と推定し、…これを牧場となし、牛一頭の地1,050坪(1エーカー)とす
るなら135万頭の牛を生育することを得、…開拓の業いよいよ進み、農事いよいよ盛
んに、荒野変じて良田になるなら…」
の文言であった。また、情報によれば「天草の民、
二百戸近々移民」
という。なお、この末文に「道路開設は開拓の大本なり」とありまし
た。たぶん性急は翁は、天草の民が来る前に一番乗りをしようと決めた、男意気と言え
ます。内田や田内らは20歳を少し超えたばかり若者です。昔の若者は偉かったとつく
ずく思います。
 「総論」には『十勝は一大国』の見出しをつけ、……これ十勝国は当道中の一大国にし
て、長さ大約二十五里、幅ほとんどこれに斉しく、耕牧に適する地積凡そ二十余方里、西
北に高山ありて遙かに猿留山脈と相接す。北に十勝川の水源たる「オブタシケ」及び音更
山ありて、能く北風を防ぐのみならず……、から始まる。主項目を抜き書きすると『温暖
にして天造の大牧場なり』『十勝は耕耘に適する所』『十勝は最も牧畜に適する所』『百
三万頭の牛』などあり、勉三ならずとも心躍る内容でした。
 その結びは『道路開設は開拓の大本なり』とし、それ本道東部は沃野千里、気候穏和、
その耕牧に適当するは石狩原野の遠く及ぶ所に非らざるは、既に全条陳述するがごとし。
しかりしこうして方今、本道開拓の業に注目する者、独り石狩原野ある而巳(のみ)なる
を知って、十勝地方の遙か其上に位するを知らざるは何ぞや、道路の開設なきに由るのみ。
それ道路開拓は開拓の大本なり。道路既に通じ、運搬既に便にして、しこうして後、拓地
興産凡百の事業始めて隆盛に至る。今十勝国内部を通過して根室新道を開設するときは、
その気候の温和なる土壌の豊沃なる実に世人の迷夢を喚醒し、他年の鴻業を興すべし。あ
に運搬と便利にのみ止まらんや。況や森林少なく、地勢平坦にしてその開設極めて容易な
るをや。この新道は必ずしも善良堅固の工事を要せず。けだし土地開け、物産興るに従い、
漸次道路の改良加うるもまた遅きに非ざるなく、閣下幸いにこれを採用せられ、速やかに
新道開設に着手あらば、独り小官等の幸福のみに非らざるなるなり。

◎初期の北海道開拓

 なお、初期の北海道開拓ですが、開拓者が測量して申請書を役所へ出し、許可され
て開拓に着手、成功願いを出し認められて私所有地となったようです。ですから道路、
用排水路は勿論、橋などは「寄付願い」を出してから着手するのです。また最初、北海
道への渡航費は官費を当てにしましたが、晩成社はこれに該当せず自費となったことが
書かれています。
◎加納道之助(通広)に出会う(新選組)
 初め銃太郎(既に十勝にいた)を含め14戸、28人の入植でした。幹部の勝、銃太
郎、勉三夫婦と東京から一人、他は南伊豆町の人達でした。これにつき最近面白い発見
をしました。新選組に関係した加納道之助(捕囚となり、大久保大和の偽名を使うと近
藤勇を看破)が開拓使となり、勉三の世話をしているのです。このことから南伊豆町出
身者が多いのかも知れません。
◎渡瀬寅次郎(開拓使)
 余談ですが、渡瀬寅次郎という人物にも開拓使庁で出会います。彼は十勝は時期早尚
と、札幌近郊の開拓を勧めます。なお、沼津兵学校付属小学校から札幌農学校卆者で、
「20世紀梨」の名付け親で、興農園という種苗業を札幌と東京で開業、新渡戸稲造と
親友でもあり、沼津(九連)に興農学園を創設する人物です。

◎帯広の選地
 帯広を開拓地として選んだのは、誰がみてもは冒険すぎたように思えます。道無き奥
地、陸の孤島です。十勝川河口大津から丸木船を使っても往復1昼夜半かかったと言い
ます。仮に作物が出来ても消費地に送るのに送料と相殺され、儲けに至りません。それ
鹿の角集めに放った野火。バッタ、野兎などの食害。蚊、ブヨ、虻の作業妨害。旱魃、
長雨、早霜の害。適合作物の試行錯誤。移民者の逃亡。
 それにいくら何でもこの30人足らずで15年間1万町歩を開墾しようとは考えなか
ったはずです。だが、続く移民はしばらくしてからでした。実際は3年で7町6反強、
15年で75町歩弱しか拓くことが出来ませんでした。これは予測が甘いともとれます
し、夢の大きさ、大志の表れと受け取ることも出来ます。また、政府の開拓に対するバ
ックアップが十勝に及ばなかったことも原因です。そして10年近く経って、帯広に十
勝分監(刑務所)が開設され、囚人たちが道路を造ったり、産業を興して大々的に開発
されていくのです。このことから「晩成社の開拓は、10年早かった」という言葉にな
るのです。


◎銃太郎との反目

 晩成社の事業を高利貸的だというひとがいる。初耕一年を除き、二年目より地代とし
て収穫の二割。農具、肥料などの貸料、家屋や生活費を貸金として扱い、それに
年利一
割五分
を課すことが問題になるのです。
 でも、この時代、郵便貯金の利息は、日歩七銭二厘で、年利にすると
二割六分強とな
る。だからして、晩成社側が相当額を補填している計算となる。
 ついでながら社則第八条をみると、
「純益二割を株主への配当上限とし、その余は積立て、社員集議の上、小にしては本社
植民地のため、学校、病院、道路費及び救恤等を補助し、大にしては国家の義挙に応じ、
本社は国民の義務を尽くさんとして成立するの主意を振張するものとす」
 と、ある。
 晩成社は赤字経営に苦しみながら、勉三は個人として教育、信仰、殖産、公共物への
土地の提供、寄付金などを惜しまなかった。
 勉三は社則を守っての打開策をさぐった。心残りなのは第十一条でいう、
一万町歩を願い受け、まず牧場となし、人畜繁殖の形状により漸次、牧場変じて耕地
となす

 この反目を契機として勉三が生花苗、勝と銃太郎は音更、芽室、渋更などへ開拓を広
げ、結果的に十勝開拓に役立ちました。

 以後勝とは変わらぬ交流を保つが、銃太郎とは表面上反目は続きます。でも、彼は子
息を東京の学校へ連れていく途中、勉三が函館で開業していた「丸成牛肉店」に立ち寄
っています。晩成社規約での反目も、どちらかといえば相互が尊敬しあって行動のよう
です。また、逸話に勉三が危篤におちいった時、
「面会拒絶」され、勉三を恨んだと伝
えられますが、勉三個人でなく医者とか、家人がした行為だと思われます。


◎嫡 子(実子に恵まれなかった)
 後妻サヨの連子トシに婿を取らせて分家させ、嫡子となったのは姉樋口フミの孫キク
を養女とし、松崎町桜田出身の佐藤八百である。八百が釧路の商店に勤めていたのを翁
が見込んだという。なお、翁はトシの妹ヨシを函館のミッションスクール靖和女学校に
入れ、寵愛した様子が日記に見えます。なお、面白いのはトシに翁が家庭教師をし、覚
えが悪いのを嘆いたことも見えます。

@自己紹介にかえて AーA.伊豆人の性質 AーB.松崎町が多くの偉人を出すのは?
B勉三って、どんなひと
  Bー私と翁との出会い
  

BーA.略歴年表
BーB.生い立ち
BーC.開拓への使命感   D.苦難の道
BーD.水田所の宴(晩成社は成功者だった)
C 結論として
    皆さんへのメッセージ
D付録、松崎町・下田北高にある関係写真  渡辺勝日記 BーE.こぼれ話序文   こぼれ話6話 FG
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