序 章 第1章
0〜19歳
第2章
19〜22歳
第3章
22〜26歳
第4章
26〜33歳
第5章
33〜43歳
第6章
43〜61歳
第7章
61〜65歳
第8章
65〜69歳
第9章
69〜75歳
終 章 あとがき

改 訂 版
 
 
                         須 田 昌 平著
 
     第1章 流  れ  藻
 

      草深い奥伊豆の貧農の子、入江長八………
    そこには、生まれながらに『流れ藻』のよ
    うな運命がつきまとっていたような気がす
    る。その運命のままに、左官となり、恋を
    し、そして江戸へ奔る。しかし、彼は夢を
    抱いていた。   
(出生から十九歳まで)

 
               @
 
 人間というものは、潮の流れに流れたゆとう流れ藻のように、時の流れのまにまに流さ
れてゆくべきものだろうか。………入江長八という男の半生をたどって行くと、不思議に
そんな感慨が浮かぶ。
 長八という男の半生は、まるで本人の意志などに頓着なく、人間の貴重さなどにお構い
なく、無慈悲に冷酷に流されている。そこには、流離の掟というようなものがあって、一
人の男の人生をどしどし動かして行っているように見える。人はそういう状態を『運命』
と言って止むを得ないとあきらめる。長八もそう思い、しかし、何度かそこから脱け出そ
うと試み、結局運命に従わざるを得なかった。そういう意味では、長八という人は不幸で
あった。
 が、流れ藻のように流されながらも、自己を失わないで生き堪え、さまよいながらも、
自己の道を踏みこたえて行った長八に、私は感動するのである。それは、意志であったか、
性格であったか、才知であったか、あるいは偶然であったか。それはよくわからない。が
とにかく彼は生き続けて彼なりの人間をつくり、彼なりの仕事を成し遂げた。私はそこに
尊敬し、そこに人間的な愛情を抱く。
     ※  ※  ※  ※
 入江長八………文化十二年(一八一五)旧暦八月五日、伊豆国松崎村という海辺の一寒
村の貧農の子として生まれた。父は兵助、その時、三十四歳であった。母はてごと言い、
年齢は不詳であるが、およそ三十歳前後であったろう。姉が一人あった。その下に二人の
男の子があったが、長八の生まれる前に死んでいる。後に弟一人、妹二人が生まれる。外
に祖母が居り、祖母の妹が同居していた。
 家は、私の子供の頃の記憶によると、妙地という所にあって、間口四間の藁葺きで、街
道に面し、西北向きに低く建っていた。ありふれた農家の構えである。内部に入った記憶
がないのに、不思議とはっきりと頭に浮かぶのだが、一間の出入口を入ると、一坪半の土
間が湿っぽくでこぼこしていて、その奧に暗い炉部屋があり、土間から奧に抜ける三尺巾
の細い通路があった。裏口に沿って、やはり土間の台所があり、黒くすすけたへっついが
二つ、小さく並んでいた。その周囲に、雑然と鍋釜の類が置かれてあった。へっついの傍
らに採光の小さな格子窓があり、そこから裏の牛原山が見えていた。こんなことを覚えて
いるのは、何度かこの道を通っていて、その都度好奇心から中をのぞいたためだろうか。
それとも、どこかの農家を錯覚しているのだろうか。
 兵助は父の代からの小作百姓で、村名主の依田善六に使われていた。恐らく二反か三反
の田と若干の山畑を耕作していた程度であったろう。大体、松崎村は伊豆西海岸の小さな
農漁村で、背後に牛原山を負い、前には那賀川、岩科川の合流する渕に臨み、その向こう
に砂洲を隔てて駿河湾が広がっていて、田畑といえば、ほんの猫の額ほどしかなく、狭い
土地である。今日でもこの土地では、田三反を耕作しておれば立派な一人前の百姓である。
狭い上に、ここの田地は大部分が湿地で、水があり過ぎて困るほどで、耕作も不自由だし、
苦労も多い。その割合に作柄はよくない。兵助はそんな所のしがない百姓であった。
 これで家族六人を養える道理がない。兵助は、農耕の暇には名主の家の雑役をしたり、
村仕事の日雇いをしたり、そんなことで僅かな日銭を稼いで、貧しい家計をやりくりしな
ければならなかった。
 こんな生活の中で長八は生まれた。長八の運命は、すでにここに芽生えていた。二人の
男児を早世させた父母は、長八の養育には余程気を使ったらしいが、日々の生活に追われ
る身では、それすら思うように行くはずはなかった。
 長八が生まれた翌年、すなわち文化十三年は『諸国大旱、畿内東海道大風水害』と記録
されている。松崎村も大きな被害を受けた。詳しいことはわからないが、大体は想像はつ
く。明治大正の頃でも、松崎村はしばしば洪水に見舞われている。堤防が整備された時代
でさえそうである。幕末の頃は想像以上にひどかったであろう。ところが、その翌年も、
『諸国大旱』で、二年連続の災厄に遭う。こんな時、小作人は惨めという外はない。反収
五俵として、三反百姓では十五俵、その半分は年供米で、外に村年供として納め、小作人
の手取りはおよそ七俵である。それは不作だからといって軽減されるものではない。当然
不作の分だけ小作人の収益が減る。それが二年続いて、兵助の家も窮乏の底だった。文化
十五年、祖母が死んだのもそのためであった。
 文化十五年は改元して文政元年となる。相次ぐ災害に加えて、諸物価が高騰し、草深い
田舎にも不況の風は容捨なく冷たく吹いた。幕府は局面打開のため貨幣改鋳を始め、翌年
もその翌年もと、立て続けに実施したが、かえって一層不況をあおる結果となり、庶民の
生活は苦しさを増すばかりだった。
 こんな貧窮の中で、長八は病気らしい病気もせず、近所の子供たちと遊び廻るようにな
る。そして、月日が経つ。
 文政三年、長八が六歳のいたずら盛りとなる。不況も、父母の苦労もわからず、野育ち
のたくましさがついて来る。牛原山によじ登り、川や海で遊び、木の実を食べ、魚を穫っ
た。元気一ぱいな、負けぬ気の子になっていた。が、反面、一人の姉によくなついた。病
弱で物静かな姉は、多くを家の中で暮らしていた。その姉に切紙や折紙を教わった。わら
べ歌や小唄を教わった。姉のいうことは、不思議によくきいた。物覚えがよく、姉に教え
られた小唄など、夜の炉端で歌って、父母を喜ばせた。父母は次第に長八の成長を楽しむ
ようになっていた。
「この子は鬼子じゃないか」
 と父親は思わず言った。親に似ぬ子を鬼子という。父母はやや弱体であるのに、長八は
全くたくましい。父母は知恵も分別もあるわけではなにのに、長八は大分違う。
「誰に似たのかねえ」
 母親は長八の姿に眼を細める。
 ところが、その年の暮れ、兵助が菩提寺の煤払いに行って、和尚の正観から、
「長八はなかなか利発の子じゃ」
 とほめられ、その時は、
「へえ」
 とうれしくなって何気なく微笑したが、
「長八を寺に寄越したらどうじゃ。学問を仕込んでやろう」と和尚に言われて、
「まだ、小僧っ子ですし………」
 兵助は遠慮深そうに言って、内心、貧乏小作のせがれに学問など無用だと反発していた。
「いや、いや、来年はもう七歳だ。外にも二、三人、同じ年頃の者が来るし、仕込むには
都合がいい」
 正観が熱心に奨める。その場は、うやむやにして家に帰って来て、夜の炉端で、長八を
膝に載せた時、兵助ははっと何かを感じた。
 菩提寺は淨感寺という真宗の寺で、正観の妻のたきえは、兵助の本家入江彦左衛門の娘
だから、兵助とは縁戚に当たる。そんなことで兵助は寺に始終出入りし、長八もかわいが
られていたのだが、兵助がはっとしたのは、淨感寺の和尚の気持ちに思い当たるところが
あったからである。
「長八を仕込んでやろうということは、一体どういうことなのだろう」
 と、頭の中で考えていたが、
「もしや」
 と思ったのである。
 正観夫婦は、二人とも、もう四十歳になろうとしている。のに子供がいなかった。夫婦
は実子をあきらめていた。すると、当然養子問題が考えられる。
「長八を養子にするつもりではないか」
 兵助は憶測した。そう思うと、正観夫婦は長八をかわいがり過ぎる。それも下心あって
のことではないかと思いたくなる。
 淨感寺は小さな寺で檀家の数も少ない。そこで正観は近所の子供に読み書きを教えてい
た。元より正観に積極的な使命感があってのことである。が、一面には、生計を支えるた
めでもあった。
「貧乏小作の小せがれに、あんなに熱心に言うのはおかしい」
 疑えば、一層そんな気になった。
 年が明けて、兵助が年賀のために寺へ行くと、正観は、兵助の顔を見るなり、
「長八を寄越せよ」
 と、半ば強制的に言うのだった。正月が過ぎて、学塾が始まると、正観はわざわざ兵助
の家まで来て、督促がましく言った。が、正観に対して、兵助は反対することは出来なか
った。内心恐れを抱きながら、兵助はとうとう長八を学塾に通わせることにした。
 長八は、しかし、ここで多くのよき友を得、多くの知恵を学んだ。ここで学んだことが、
彼の運命に大きな作用をすることになる。七歳の春から十二歳の春まで、たった五年間で
はあったが、彼にとっては、生涯の最も良き時代であったかも知れない。
 学塾を通うようになったが、長八は月謝免除であった。その代わり、寺の雑役をさせら
れた。年齢の割に体も大きく力もあった。機敏でまめまめしい性質でもあった。彼は言わ
れた仕事を手際よく片付けた。学問の方も、最初は日用の手紙の読み書きぐらいと正観は
思っていたのだが、いつの間にか四書の素読の仲間に加わるようになっていた。兵助が危
惧していることを裏書きするように、正観夫婦は次第に長八への親愛を深めていくように
見えた。
「兵助がいつか言った通り、こいつは鬼子なんだ」
 正観はそう言って、妻のたきえをかえりみて楽しそうに笑った。
 いつかこうして月日は流れた。文政五年、六年、七年…………この頃、しきりに外国船
が日本近海に出没して、世間を騒がせていた。淨感寺塾でも、大きい人たちが尾ひれのつ
いた風聞を拾って来ては、盛んに話し合っていた。長八はその中にいて、よくはわからな
いなりに、やはり興奮し、眼を輝かせ胸ときめかせて聞いていた。
 文政八年、幕府はとうとう外国船打払い令を出し、海防を厳重にするよう諸藩に命じた。
草深い田舎ではあるが、ここも太平洋の岸辺である。まして下田に近い。この報道は、学
塾の少年たちにとって、現実的な大きな衝撃であった。少年たちは日本国の大きな変化を
感じた。それは新しい時代の到来を意味するものであった。が、それはどのような変化で
あるかわからない。わからないながらに少年たちは緊張した。理屈ではなく、言葉でもな
く、直接少年たちの肌に胸に響く何かがあった。
 ちなみに、当時の淨感寺塾で親しかった学友を紹介して置こう。
 土屋宗三郎。長八と同年齢。後に三余と号す。十五歳で江戸に出、東条一堂の門に学び
経史音韻の学を修め、算数実学にも励み、また剣法をも学んだ。十年苦学の末、帰郷して
農耕のかたわら、三余塾を開き、子弟の訓育に当たった。その教育法は、実践主義と言う
べきで、農耕と学問とを結びつけ、生きた知恵を錬磨するところにあった。一面、勤王の
心厚く、回天の志を抱き、志士との交遊もあった。慶応二年七月没。五十二歳であった。
この門から依田佐二平、勉三兄弟始め、多くの人材を輩出した。
 高柳福太郎。隣村江奈村の人。長八より二歳年長。後に天城と号す。学を好み詩文をよ
くし。外国船の到来によって、ひそかに外国人との接触を図り、英語を独修し、後に横浜
に出て新時代の学塾を開き、一方、英国公使館の書記となり、明治二年、惜しくも没した。
この人は体も大きく、精力的で、酒を飲むと放歌高吟する癖があった。
 石田馬次郎。(※原文は石田馬之助。後の小沢一仙、小沢雅楽助を紹介している。しか
し、著者は本書発刊後、編者が調べたものを見て生年を誤ったことを認める。以下、一仙
の項は編者の文責において加筆訂正する)一仙は天保元年生まれの長八より十五歳年下。
累代続く宮大工一家・石田半兵衛の長男、父に従って修業し彫刻も相当な腕の持ち主であ
った。何時の頃か甲州の神主・武藤外記に師事し、その多才ぶりは、軍器、産業、運輸な
どを諸藩に建言、掛川藩主太田資始(道醇)には波浪推進の無難車船建造を建言して百石
侍として抱えられ、遠州灘を直接渡って掛川との流通を図ろうとした。のち私費にて江奈
海岸で無難車船を建造するが失敗、それを江戸竹蔵で実験して成功、それをもって敦賀か
ら琵琶湖、瀬田川を通って京、大坂までの運河計画をする。それも水路トンネル、閘門式
の本格的運河である。しかし、大政奉還という変革期に遭って挫折した。そして風雲急を
つげる京都へ出て勤王・討幕運動に参加、慶応四年一月、公家・高松実村を総帥に擁し、
館林藩中老格・岡谷繁実らと甲州へ進み、偽勅使事件主犯としてただひとり斬首刑、三十
九歳で甲州の露と消える。なお、実村と繁実はその後、明治の功労者となる。
淨感寺塾の生徒は総数三百余人と言われているが、その中で名を遺したのは、上記の三
人と長八で、奇しくも幕末動乱期となっているのは、時勢が重要な意味を持っていたこと
はもちろんだが、その頃、正観が四十歳前後の分別盛りで、油の乗り切った時で、その影
響によるところも少なくはないであろう。

                   A

 文政九年春、長八は十二歳で左官仁助に弟子入りをする。
 実は十二歳説には確証はない。十二歳では早過ぎるという反論もあるが、私は十二歳説
に従いたい。というのは、淨感寺の養子問題がからんでいると見るからである。
 淨感寺の正観は、長八が塾に通うようになり、次第に成長するにつれて、彼の資質才能
を嘱望していた。そして、恐らく養子にという希望を具体的に考えるようになっていたに
違いない。
正観自身、実は鍛冶屋の子で、淨感寺の養子となり、檀家の有力者である入江家から嫁
をとり、一応寺の対面を保って来ている。またも養子ということになると、今度は入江の
血統から選ぶべきで、そうすると、どうしても長八が適当ということになるのである。
 正観夫婦は、塾に通う長八の実態を観察して、いよいよ心を決めたに違いない。養子に
するつもりで、親身の面倒を見る。寺のしきたりを教える。時折は仕事にかこつけて、一
しょに夕食をしたりする。
 誰から聞いたというのではないが、兵助は父親の本能で、正観夫婦の気持ちが手にとる
ように読めた。
「困ったことだ」
 と、ある日女房のてごに愚痴をこぼした。兵助の側から言えば、貧農とは言え長八は総
領である。いや貧農ゆえに早く大きくして、家計を助けてもらわなければならない。健康
でない夫婦が、しかももう初老期に入ろうとしている。先行き不安である。淨感寺の考え
はありがたいが、それではこっちが困るのである。
 が、もし淨感寺から正式に、養子に、と言って来たら?………それは日頃の義理からこ
とわることは出来まい。
「淨感寺から話の来ないうちに」
 兵助はそう思うようになった。
 兵助はだんだんあせって来た。考えあぐねて、近所に住む、親しい仲の左官の関仁助に
相談した。仁助は簡単に、
「おれの所へ寄越せ。長八なら気心も知れているから、喜んで引き受ける」
 と言った。兵助は、長八を小作百姓にするつもりはなかった。少しはましな生活をさせ
たかった。渡りに舟と、兵助は仁助の言う通り長八を弟子入りさせることにした。
 運命はこうして一瞬にして方向を変えた。そして、そこから別な流れに任せて、流れ藻
は流れて行く。
 ここで、この地方の特殊事情を説明して置く必要があろう。伊豆西海岸の村々は、大工、
左官の多い土地で、今日も尚その特徴は失われていない。昔は江戸品川などや街道の宿場
の寺社には、伊豆職人の手になったものが多かったという。時には棟梁として名を成した
者もあり、今日もその伝統は続いている。伊豆西海岸はどの村も農地が狭小で、農耕だけ
では自活して行けない。農耕以外に、近年は漁業が盛んだが、これは明治以降の現象で、
江戸時代の漁業は近海漁だけで、単独の職業ではあり得なかった。そういう暮らしの中で、
特に貧しい家庭では、早く口減らしをする必要があった。口減らしとは、子供を他人に預
けて家族数を減らすことである。そうしなければ生計は支えて行けないのである。それに
は、大工、左官の職人の徒弟にすることが一番簡単だった。商人の丁稚では、長い間の奉
公とさまざまな修練があり、従って一人前の商人になるのは容易ではなかった。そこへ行
くと、大工左官は手っとり早い。腕さえ磨けば何とか通用した。こんなことから、長い間
この土地の伝統となったようである。長八が左官の道に入ったのも、いわば自然の成り行
きであったとも言えよう。
 親方の仁助は、伊豆西海岸の村々はもちろん、下田方面にも仕事をしていた棟梁で、伝
説によれば、駿府にも出向いているから、かなり手広く働いていた人らしい。その上、長
八の家とは眼と鼻の近さで、始終手軽に往き来出来るのも、兵助にとっては好都合だった。
 仁助の家は、夫婦に子供三人、それに母親を加えた六人家族で、後に間もなく子供二人
が死んで、娘のむめだけが成人する。当時むめは九歳であった。外に、住み込みの職人や
弟子が数人居た。
 さて、長八は十二歳の弱年で徒弟奉公を始めたが、性質が明るく物事に屈託せぬところ
が、家族にも職人たちにも好かれたようで、仕事は馴れなかったが、存外気楽に暮らして
いた。何よりも職人たちから調法がられたのは、長八に読み書きの素養があったことであ
った。
 仕事は土運びや道具の整理やで、毎日何とか忙しかった。家に居れば、風呂焚きから薪
割りなど雑用が次々にあって、長八は休む暇もなかった。が、長八は仕事を楽しむように
働いた。貧乏暮らしの中で育った長八には、忙しく働くことが当たり前のことであった。
 こうして半年余りが過ぎて、秋になった。その頃、長八は始めて遠出の仕事をすること
になった。四里ほど離れた山向こうの箕作村で倉普請をするのだ。長八は親方や職人たち
と婆娑羅の山を越えた。振り分けの荷を肩にして細い山道を登った。村から始めて外に出
た少年の心は無邪気に躍った。
 外で働く喜びもあった。もう半年過ぎているのだから、現場で何か仕事をさせてもらえ
るという期待もあった。
 険しい山坂を登り降って、日暮れに箕作村に着いた。次の日から仕事が始まった。
 ところが、幾日経っても、長八には仕事らしい仕事を与えてくれない。依然として土運
びや土こね、道具の片付けなどの雑用ばかりである。長八は内心不満でならなかった。
 秋らしく、よい天気が続いた。仕事は順調に進んでいた。そんな一日、長八は漆喰を練
っていた。練って行くうちに、漆喰は粘りを増し、艶が出、きめこまやかな塗り土になる。
鼻をつくにおいもいい。懸命に練っているうちに、長八は誘惑を感じていた。この土を鏝
で塗ってみたい、そう思った。
 職人の働いている足場の下にもぐって、そっと漆喰を塗った。と、
「長!」
 といきなり頭の上から大声がした。
「いたずらをするな」
 長八は職人ににらまれた。
「おれにも塗らして」
 と長八は哀願するように上を見上げた。
「馬鹿野郎」
 そして、続けざまに、
「いたずらをすると承知しないぞ」
 仕事はだんだん完成に近づいていた。もう白壁が鮮やかに秋の日に映えていた。職人た
ちは分散して、細部の仕事をしていた。一人の職人が裏壁に折釘の座を塗っていた。長八
は傍らで土を練りながら、その様子をちらちらと見ていた。一つ作るのに一時間以上もか
かっている。朝から始めて、一日でやってしまえるだろうかと思うような遅さである。
 折釘の座というのは、大きな折釘を壁に通して、その根もとに半球形に漆喰を塗り固め
る。それが折釘の座である。折釘が垂直にあるのは、丸太柱を立て横棒を折釘と双方に結
び、それに足場板を乗せ、後の修理のためにある。また、実用として農耕に使う長い棒と
か、竹竿とかを吊るす。
 昼食時になって、職人たちは仕事場から離れて、母屋の方へ行ってしまった。その隙を
見て、長八は大急ぎで台所へ走った。
「おしずさん」
 と少女を呼んだ。
「汁椀を貸してくんな」
 少女は疑いもなく、戸棚から汁椀を出して来た。
「ありがとう」
 長八は土蔵の裏手に引き返した。そこには、昼前に作った折釘の座が二つ出来ていた。
汁椀を当てて見ると、大体大きさは似ていた。長八はにやりと笑った。ていねいに椀に漆
喰を詰め、それをぺたりと壁に当て、そうっと椀をはがし取った。うまい具合に接着した。
それへ折釘をゆっくりと刺し通した。長八はもう一度にやりと笑って、食事の場にもどっ
て行った。
 やがて午後の仕事が始まった。職人が元の仕事にもどると、そこに折釘の座が作られて
いるのを見た。
「長八の奴」
 と職人はつぶやいた。辺りを見たが、長八の姿は見当たらなかった。仕方なく職人は苦
笑いして、折釘の座を一つ、手際よく切り落とした。
 こういう話は外にもいくつか残っている。土蔵の棟の鬼瓦に家紋をつける家があって、
ある時梅鉢紋を仁助が塗っているのを見て、
「そんな面倒なことをしないで出来そうなものだ」
 と、長八は生意気なことを言った。仁助は笑って、
「生意気言うな。そんなら手前やってみろ」
 と言うと、長八は気軽に、そこからか竹筒を持って来て、短く切ったのに漆喰を詰め、
梅鉢の形に並べて見せたという。
 その外にも似たような話がいくつかあって、どれも皆長八の才気を示すものとして興味
深いが、折釘の座については、専門の左官の人から異論があって、折釘の座は長八のやっ
た方法では釘がぐらついて用に耐えないという。多分そうであろう。梅鉢紋の話にしても、
そんなに手軽にすむものなら、とっくに誰かがやっているはずである。だがしかし、駆け
出しの弟子らしく素人臭く、そしていかにも才知のひらめきの感じられるところがいい。
一つぐらいは信じていいことのように思える。
 こうして、三年がまたたくうちに過ぎて行った。長八も次第に左官らしく成長する。
 この間にも時勢は激しく動いていた。文政十一年秋、妹のとめが三歳で死ぬ。
 文政十二年、長八は十五歳の春を迎える。もうめっきり青年らしくたくましくなる。こ
の頃から、仁助の娘のむめとの間に淡い愛が芽生える。始め仁助は娘のむめの勉強相手に
長八を当て、読み書きを教えるよう言いつけた。暇を見ては、長八が教えた。それが二人
を親しくした。が、むめはまだ十二歳である。ただ親しいというだけに過ぎなかったのか
も知れない。
 もう一つ、もっと重大なことが長八の心に育ち始める。それは長八自身の将来に対する
悩みである。
 仕事の暇には、長八は淨感寺塾に出掛けて行っては、仲のいい友だちと語り合いふざけ
合っていた。国情がただならぬことも、そうして聞き知っていた。幕府の財政窮乏、外国
船問題、………松平定信の必死の施策も結局は成功せず、止むなく退陣したことも、貨幣
改鋳による不況のことも、皆友だちから聞いた。そして、長八にはよくわからないなりに
若い情熱はゆさぶられていた。それは、勢い長八自身の未来にいろいろな問題を投げた。
 この悩みは、その年の秋、親しい友土屋宗三郎が修学のため江戸に出たことによって一
層切実に長八の心にわだかまりを持つようになる。
 土屋宗三郎は、近村那賀村の名主の息子である。学問は熱心だし、気質も強かった。名
主の子だから、江戸遊学も当然かも知れなかった。だが、実は第一の理由は、宗三郎自身
が積極的に時勢を考えての行動であったのだ。伝聞によれば、掛川藩領であった隣村が、
年々酷税に苦しめられており、しばしば無理な課役を強いるのに義憤を感じ、藩役人に反
発しての決意であったという。因みに那賀村は天領、天保十三年以後旗本・前田又五郎の
知行地となる。
 宗三郎がいよいよ江戸に向かう日、塾の友が見送った。その中に、高柳福太郎も長八も
いた。江戸回航の船が沖合に停泊していた。海は門出にふさわしく静かにうねっていた。
遠い地平に薄雲が柔らかく沈んで、空はすっきりと晴れていた。宗三郎を中心に二人が対
い合っていた。さりげない話の中に、それぞれの思いがあった。福太郎は言葉少なく、し
かし考え深く江戸の様子を知らせてほしいと頼んでいた。その中で、長八は黙りこくって
いた。
 やがて、宗三郎は小舟に乗って浜を離れた。本船が帆をあげていた。宗三郎が乗り移る
のを待っていたように、船はゆっくり舳先を廻した。宗三郎が手を振った。浜辺の人々も
手を振った。
 船は南西の岬に向いて動いた。次第に小さくなっていった。浜辺の二人はじっと船を見
ていた。船が岬に隠れて行った。
「とうとう行っちゃった」
 と、誰もが心の中でつぶやいた。
 突然、福太郎が叫ぶように言った。
「よーし、おれだって負けないぞ」
 福太郎は岬の端をにらんだ。そんな姿を、長八は微笑して見ていた。口には出さないが、
同じ思いが胸にあった。
 しばらくして、いつか長八は福太郎と別れて、那賀川の川沿いを歩いていた。
「おれはこれでいいのだろうか」
 宗三郎にはもちろん、福太郎にも、今は何か引け目を感じていた。彼等は、長八を尻目
に、はるか彼方を、すたすたと歩いているようだった。
「おれは?」
 と考える。
「どうすればいいのだ?」
 と自問する。が、答えがはね返って来ない。急にさびしさが襲う。
「おれも」
 長八は彼等に負けられないと思う。しかし、直ぐに現実が立ちふさがって、彼の思いを
足踏みさせる。貧しい家、老いた両親、泥まみれの仕事、……どこに希望の隙間があるだ
ろう。長八の心は自然に暗くとざす。
 日が高くなっていた。長八はしょんぼりと仁助の家の裏庭に入った。今日は隣村に仕事
があって皆出ている。長八は宗三郎見送りのため昼前だけ暇をもらっていたのだ。これか
ら急いで仕事場に出掛けなければならないのだが、何となく足が重い。
「長さん、お帰り」
 庭から、明るくはずんだおむめの声が聞こえた。おむめは初咲きの菊の鉢に水をやって
いたのだ。
 おむめは、むっつりとして返事もせず通り過ぎようとする長八を不審に思って見ていた。
駈けるようにして長八の傍らに寄った。
「どうしたのさ」
 おむめは十二歳、紺の絣に紅の帯をしめて、少女らしく無邪気に言った。
「どうもしないよ」
 長八は無愛想に言った。
「だって………」
 とおむめが長八の顔をのぞく。それを振り払うように、
「何でもない」
 と長八は言って、すたすた行こうとする。
「変だよ」
 そう言われて、思わず足を止めた。おむめを見た。
「変なこたあない」
「宗三郎さんが行っちゃったので、長さんさびしいんだね」
 いたわるようにおむめが言った。そういう優しさが、長八の心を慰めさせた。
「うん」
 素直にうなずいた。
「そうね、さびしいだろうね」
 おむめはつぶやくように言った。と、急に思いついたように、
「長さん、髪を結ってよ」
 とおむめが言った。元結いのしめ方がきつくて気持ちがいいと、おむめは長八に髪を結
わせることがよくあった。
「だめだよ、今日は」
「いいじゃないか、ちょっとだもん」
 おむめが長八の手を引っぱった。
「仕方ない子だ」
長八は手を引かれながら苦笑した。
 縁先に鏡を据えて、長八はおむめの髪を結った。いつの間にか、さっきのさびしさは消
えていた。
 ひっそりとした秋の日の光が満ちていた。牛原山の方角で、百舌鳥の鋭い声が聞こえた。
長八は、おむめの桃割れ髪に櫛を入れながら、ふっと、得体の知れない溜息をした。

                  B

 西風が吹き出すと、もう冬である。この地方では『かかあ天下と西の風』という俗説が
ある。かかあ天下はともかくとして、西風はすさまじい。駿河湾を越えて、まともに吹き
つける風は、潮気を運び浜砂を降らせる。道に砂旋風(すなつむじ)を巻く。稲刈りが済
み、秋祭りが終わり、百舌鳥が鳴き出すと、もう西風の冬になる。そうなると、海も田も
冬眠に入る。人々は家にこもって内職を始める。
 冬の内職と言えば、この頃畳表を織る仕事が盛んに行われた。これは淨感寺の正観和尚
が、十年前に諸国行脚の途次、九州から藺草を持ち帰って、これを栽培したのが始まりだ
と言われている。暖地だし、湿田が多いし、藺草の栽培に適しているらしく、次第に村内
にひろまり、農家の重要な収入となっていた。藺草が生長し切る盛夏に刈り取って、暑い
日に乾し上げ、それを冬の農閑期に畳表に織るのである。織り上げた畳表は、仲買人が一
枚でも二枚でも買って行った。塩気を含んでいて、畳が丈夫だということで、沼津、三島
方面まで評判がよかった。
 西風が吹き荒れる日、砂埃が渦巻く道を、仲買人は大八車をガラガラと響かせて通る。
風にまざって、畳表を織る音がトントンとどこからともなく聞こえて来る。その音を便り
に大八車は小路に入ったり、露地を曲がったりするのである。
 子供たちの遊びも、海や川から野良や山に移る。凧揚げ、独楽回し、山芋掘り………西
風の吹きさらしの中で、子供たちは頬を真っ赤にして遊ぶ。
 冬は左官の仕事も暇になる。長八はそんな時よく実家に帰り、家に居ても所在なくて、
つい淨感寺へ足が向く。淨感寺では、福太郎と語り合うことが多かった。
 福太郎等の学問は進んでいた。時局についていろいろと新しいことを知っていた。会う
たびに、長八は彼等との距離を感じた。しかし、彼等と会っている時は楽しかった。が、
彼等と会った日、自分一人になると、きまって、しょんぼりと考え込んだ。
「おれはこのまま一生左官で終わらなければならないのだうか」 
 そうして福太郎や宗三郎を思った。彼等と引きくらべて、自分のみじめさが胸にしみた。
「どうすればいいのか」
 が、それはわからなかった。情けなく、もどかしく、やりきれない気持ちがよどむだけ
だった。
 気をまぎらすように、母に代わって畳表を織ったりすることがある。がむしゃらにガタ
ゴトさせて、かえって一層いら立つのをどうしようもなく、ぷいと外に飛び出したりした。
 こんな時、長八は運命ということを考え、しかし、そこから脱出しようと腐心する。が
いつも決まったように、現実の壁は暗く立ちふさがっていた。
 時には子供たちに混って、無邪気に凧揚げをした。見ようによっては、あきらめでもあ
り、気晴らしであった。自分で凧絵を描き、骨を削り、糸を結んだ。そうして出来上がっ
た凧を、乾いた冬空に揚げた。微かにうなりながら動く凧の姿を見詰めながら、長八はぼ
んやりと未来を思ったりした。
 長八の伝説の中に、凧絵を子供たちにせがまれるままに描いたという話がある。「長さ
んの武者絵」は子供たちに人気があったという。恐らくこの時代の話であろう。長八には
すでに絵心が潜んでいた証拠であろう。
 冬が終わって、明るい正月を迎える。文政十三年である。左官の仕事もぼつぼつ始まる。
長八は心の悩みを抱きながら、仕事に追われるようになる。長八が左官の弟子になってか
ら、早くも五年目である。年若いけれども、腕のいい左官になっていた。もう先輩たちと
同じように壁も塗るようになっていた。
 ところが、この年の春たけなわの三月、長八にとって一つの転機がおとずれた。仁助一
家が駿府へ仕事に出掛けることになり、長八もこれに加わったのである。
 駿河路との交通は多くは船便である。駿河湾を横断して清水港に入る。そんな船旅も長
八には始めてであったが、長八は浮き浮きと楽しむ気分にはなれなかった。
 駿府での仕事は、呉服町の商家の店蔵の普請だった。店蔵というのは、店構えの家屋を
四方漆喰塗りにしたもので、当時火災防止の建築として都会地では盛んに造られていたも
のである。
 駿府に来て、長八はその繁栄ぶりに驚いてしまった。駿府といえば、徳川家康の隠居地
であり、東海道の要衝の大宿場町であり、古く今川氏の城下町以来の文化を持っていた。
名所旧蹟も多く、町はおっとりと静かで落ち着いていた。商家にも風格があり、重厚な家
々が多かった。
 この時、こんな話が伝わっている。いよいよ仕事に掛かって幾日か経った日、その店の
主人が見廻りに来て、裏壁を塗っていた長八の仕事のうまさに驚き、感心し、親方の仁助
に談判して、表壁を塗らせることにした。表壁は江戸から来ていた渡り職人の金五郎に受
け持たせてあったのだ。ところが、裏壁を塗っている長八の方がはるかにうまいので、こ
の屋の主人が表壁を長八にやらせたいと思ったのである。
 金五郎はその時二十七歳の働き盛りで、江戸で仕込んだ腕前を自慢していた。それが、
年も若い長八に表壁を譲るのだから、内心穏やかでない。とうとう他の職人を語らって、
長八を傷つけようと計画し、その機会をねらっているうちに、その陰謀が店の主人にもれ、
仁助の耳に入り、彼等が密議しているところを見つかって、未遂に終わったという話であ
る。
 英雄、偉人を描く場合、往々にして仕組まれる挿話のようなにおいがして、この伝説は
戴けないような気がするが、長八が、若くしてすでに優れた技術を持つようになったこと
を示すものとして、一つの参考にはなる。
 しかし、長八が駿府に来たということは、もっと重要な意味を持っていた。それは、こ
の時、長八は明らかに絵に関心を持ち始めたという事実である。このことは、彼が間もな
く絵を描き始め、一時絵に夢中になっていたことを考え合わせて、当然駿府生活から出発
したものといってよい。
 駿府は、その歴史的伝統からいっても、地理的条件から見ても、東西文化を持ち合わせ
持ち、しかも恵まれた環境で、人々は文化に理解を持っていた。そして、さまざまな文化
が美しく保たれていた。こういう所に、長八が一箇月余りも滞在し、折りに触れて、驚き
の眼でこれらの文化に接したことは想像にかたくない。社寺や名所の美術に、商家の調度
に、少なくとも長八は『美』というものを意識し、美にあこがれ始めたことは確かであろ
う。
 ここから、悩み続けて来た彼の未来についての問題がほぐれ始める。淨感寺の塾友との
精神的な距離を縮める手段が見つかって来る。暗い壁に一つの突破口が出来て来る。彼は、
駿府での生活で得た労賃で、絵の道具一式を買い整えた。しきりに絵に関心を示し出した。
しかし、そんなことは誰にも言わなかった。実際、絵を描くことも駿府では出来なかった。
彼はただ心にさまざまに思い描いていた。絵を美しいと思い、絵に心を引かれた。絵を描
きたい気持ちにかられ、そっと絵筆に触れたりした。ようやく、心の中で脱皮が始まって
いた。「絵師になれたらなあ」と、途方もないことを思ったりした。
 やがて、駿府での仕事が終わって、長八は帰郷した。もう長八は明るさをとりもどして
いた。実家に絵の道具を置いて、暇を見ては楽しむように絵筆を動かしていた。そんな時、
駿府で見たたくさんの絵が頭に浮かんだ。それを模写するように筆を運んだ。
 この年十二月、改元して天保となり、間もなく天保二年の春を迎える。長八、十七歳。
 年が明けてもまだ寒く、仕事もなかった。長八は絵に熱中していた。少しずつ絵を描く
面白さがわかって来ていた。 仕事が始まると忙しかった。が、忙しい中でも、長八はし
きりに絵を考えていた。暇を見つけては絵を描いていた。
 その年の夏、松崎村に旅の絵師が来た。その話を聞いて、長八は思い切って絵師を訪ね
てみようと思った。蒸し暑い夜、長八は村はずれの安宿に絵師を訪ねた。絵師はもう五十
歳を過ぎた老人で、半白の髪を無造作に束ね、無精ひげをのばした小柄な人だった。長八
は自分の描いた絵を出して教えを乞うつもりだった。行灯の光をそばに寄せて、絵師は長
八の絵をひろげて見た。黙って、一枚一枚見ていった。見終わると、投げ出すよに絵を古
畳の上に置いて、
「こんなもの絵じゃあない」
 と無愛想に言った。日頃一心になって描いた絵の中から、これはと思うものを五枚ばか
り選んで来たのである。それが、批評らしい批評もされず、冷酷に無視されたような気が
して、長八の自負心は急にしぼんでしまうようだった。茫然として言葉も出なかった。長
八は夜ふけの道を歩きながら、 
「何を!」
 と、絵師の傲慢さに反発した。が、一面では期待外れの後味の悪さが意識された。
 この伝説には注釈がついている。この貧相な画家は、年若い長八の絵のうまさに驚嘆し
たが、わざと素っ気なくやっつけて、若者の慢心を警しめたというのである。だが、これ
も伝説によくある『ひいきの引き倒し』のような気がする。私はやはり旅の絵師の言葉を、
そのまま受け取る方がいいと思う。たとえ優れた才能があったにしても、独学独修という
ことは思うに任せないものである。我流はどこまでも我流で、とかく独りよがりになりが
ちである。長八にしても、芸術意識において、感覚において、その技術において、そうや
すやすとうまい具合に行くはずはない。
 が、長八はそんなことで挫折しなかった。かえって一層絵に立ち向かうようになった。
 そういう長八に、仲間の職人たちは冷たい眼を向けた。左官が絵を描くなんて気障に見
えたに違いない。
「生意気だ」
 と露骨に口にするのは金五郎だった。金五郎は駿府の仕事が終わったら、その足で江戸
へ帰るはずだった。が、どういうわけか、そのまま仁助と共に松崎村にもどった。年が明
けても帰らなかった。あれ以来、もう一年になる。年長であり、腕もあり、今では棟梁の
代理をするようになっていた。金五郎が長八に好意を持たなくなったのは駿府の事件から
だった。ただそれだけの理由にしては、余りに執念深い。それには、別な理由が生じたの
である。
 それは仁助の娘おむめに関してであった。金五郎は、いつからかおむめに眼を向けるよ
うになっていた。おむめの美しさに引かれて、しきりにおむめに接近しようとし、おむめ
の歓心をかおうとした。おむめはもう十六歳、花もつぼみの年頃で、女らしさが日増しに
つややかになっていた。おむめに関心を持つということは、場合によっては仁助の跡目を
継ぐことであった。金五郎にその下心があってのことかどうかわからないが、一応考えら
れることである。
 が、おむめは金五郎を好きでなかった。十歳以上も年齢が違うし、江戸っ子気取りの粋
がった態度もきらいだった。それよりも、おむめにはすでに長八が心にはっきりと位置を
しめていた。したがって、金五郎が馴れ馴れしくすればするほど、おむめは一層不快な表
情を示し、金五郎に近づこうとはしなかった。そういうおむめであることを、金五郎は十
分に知っていた。それだけに、長八に対する反発がひどくなっていた。
 この時代の伝説として、長八がおこまという娘と恋し合うという話がある。これが、や
がて江戸に出奔する原因となり、長八の運命を大きく転換させることになるのだが、私は
この長八研究の最初から、おこまという女の実体がつかめないで困っていた。どこの誰の
娘か、年齢はいくつか、どんな女であったかのか、………老人たちに聞きだしても、誰も
伝説の範囲を出なかった。つまり、誰もおこまという女を知ってはいなかったのである。
もう現実には時代が遠くへだたっていたのだということになる。
 伝説では、三年を約束して長八が江戸へ出奔する。三年経って帰って来たら、おこまは
すでに他人の妻になっていて、長八は失恋の結果、自暴自棄になる、といった程度のこと
で、出奔した原因も、人妻になった理由もわかってはいないのである。
 ところが、偶然のことから村の古い戸籍簿を調べる機会があり、そこで、関仁助の長女
に、むめという子のあることがわかった。すでに今まで述べて来たおむめである。
 私は、
「おこまというのは、おむめのことに違いない」
 と突差に思った。
 おこまという名は、この明治初年の戸籍簿には一人も見当たらない。実在するなら、ど
こかにはっきり出ているはずだが、それがない。一家転住ということも、考えられないわ
けではないが、時代が時代だけに、余程の理由のない限り、それは不自然に感じられる。
 私は、おむめが娘時代までおこまと通称していたのかも知れないとも思った。昔は随時
名前を変えることがよくあったからである。
 私は、長八に恋人があったこと、そして失恋して無頼の生活をしたことを、彼の伝記の
上から信ずべきことだと思っている。その恋人は、年齢から考え、境遇から考え、そして
その終末の人妻になった事情などから考え、どうしてもおむめでなければならないように
思える。おむめであることによって、伝記の上で不明な数箇所が解きほぐされるからであ
る。私は絶対おむめが長八の恋人であると信じて今までの説明をして来た。これからのこ
とに関しても、おむめとして、この物語に登場せしめる。かなり独断的であるが、今のと
ころそうするより外に手がないのである。

                  C

 天保三年。
 江戸市中を騒がせている怪盗鼠小僧次郎吉のうわさは、この春頃から、草深い村にも伝
わって来た。貧困な農民たちにとって、その活躍ぶりは胸のすくような思いで、人々は興
味深げにまことしやかに、繰り返し繰り返し話し合っていた。
 が、そんな話題も農耕の仕事が始まるといつのまに消えていた。田植の頃にはもう誰も
口にしなくなった。この年は雨が多く水が溢れ、早苗が弱々しく徒長した。それでも何と
か田植が終わると、また雨が繁く苗が流された。その上害虫が発生するということで、農
民にとって鼠小僧どころではなかったのである。
 七月に入って穂ばらみ期となったが、穂数が少なく、その上台風に襲われて折角の出穂
が倒伏した。農民は眉を寄せた。八月、やせ細った稲穂を力ない手で刈り取った。その頃、
鼠小僧が捕らえられたといううわさが伝わったが、農民たちはそんな話など耳に入らない
ほど、苦しい場に立たされていた。いわゆる天保の大飢饉で、全国的に大きな被害のあっ
た年である。
 その年の暮れ、松崎村では名主の依田善六が三つの倉を開いて古米を出し、農民に分け
与えた。その時、善六は、
「これだけで来年秋まで食いつなぐのだぞ」
 と農民に戒めた。
「無駄にするなよ。大食いするな。一食でも食い延ばす算段をしろよ」
 と、事こまかに注意をした。
「山に行って、食べられるものは採って貯えて置け、道端の草も粗末にするな」
 名主はこんな事態を予想していたのである。
「空き地を遊ばせて置くな。空き地があったら、蕎麦や稗を播け」
 こう、念には念を入れるように諭した。
 農民たちは、
「ありがとうございます」
 と幾度も幾度も礼を言って、米麦を押し戴いて帰ったが、心は暗かった。
 収穫は半作にも足りなかった。年貢米は規定通り納めなければならないとすると、収穫
の全部を出しても足らぬ農家も出てきた。名主の善六は独断で年貢米を半減とし、当座の
危急を救うことを先決とした。この名主善六の処置は適切であったし、善政とすべきであ
ったが、事実は、それでも農民の生活には焼石に水のようなものであったいう。
 ちなみに、依田家のことに触れて置こう。名主善六は二人の旗本の領地を宰領していた。
松崎村は幕府直轄領で、大部分がこの旗本の所領だった。しかし、幕末になるにつれ、旗
本は経済的に窮迫し、反対に名主が実権を握るようになったが、松崎村の場合も、これと
同じ経過を示していた。大正の末、依田家は事業に失敗して破産したが、その財産整理の
時、おびただしい紙反古が出て来て、その中に旗本との間に取り交わした証文類が発見さ
れた。これによると、天保十四年には旗本へ収納すべき年供米はすべて依田家が借金の抵
当として取っていることがわかった。明治初年には二旗本の所領地は全部依田家のものに
なってしまっている。旗本が太平に馴れ遊芸にふけり華美に陥ち、それが嵩じて、年供米
の先取り、前借りを繰り返して行くうちに、遂に田畑まで手離さなければならなくなった
事情がはっきりと想像される。
 天保の大飢饉は、こうして農民を窮地に追い込んだ。が、それは農民だけのことではな
かった。連鎖反応は四方八方にひろがった。左官の仕事もその埒外ではなかった。棟梁の
仁助は、大勢の職人や徒弟を抱えているわけに行かず、止むなく実家に戻したり、伝手を
探して他所に出したりして、残ったのは金五郎と長八だけという始末だった。
 もちろん、仕事がないから、長八はその暇を絵を描くことに過ごしていた。金五郎は、
家に所在なく暮らしていた。
 時たま、淨感寺に行くことがあった。正観夫婦と語り合ったり、福太郎と彼の友人の辰
之助と話し合うことが多かった。この辰之助は、時代が人をつくるのか、土地が人をつく
るのか、後年の馬次郎(小沢一仙)を彷彿とさせる男であった。
 福太郎たちとの話題は、大抵は時局的なことで、青年らしく話が弾んだ。この時の話の
中心は辰之助で、言葉鋭く時局を嘆いた。この日も海防について論じ出した。
「四辺海をめぐらしているわが国が、一たん外国からの襲撃を受けた場合、一体どういう
ことになるか。今の日本は、丁度丸裸で大砲の筒先に立っているようなものだ。どこから
だって撃ち込まれる」
 彼はまずこういうふうに論じ始める。
「なぜ幕府はこのことに注目しないのか。白河公は沿海を調査したが、調査しただけで終
わってしまった。調査の結果、どういう手を打つべきか、どうしなければならないかとい
うことを幕府は何も考えていないではないか」
 こういう時の辰之助は、能弁になり、次第に熱気を帯びて来る。続けて、
「ことに、伊豆の国は、外国からの襲撃を受け易い。好箇個の目標だ。このことを考えると、一日も早く防備を固めなければならない」
 すると、今まで黙っていた福太郎が、いつものように口重に、そして静かに辰之助の弁
舌をさえぎる。
「しかし」
 福太郎の大きな体がゆれる。
「外国の事情が実はわれわれにはよくわかっていないのだ。わかっていないのに、ただ夷
狄のように見るのは、おれは賛成出来ないんだ。先ず外国を知らなければならない」
 福太郎は微笑さえ浮かべている。少し辰之助の一途さをからかっているように見える。
 すると辰之助はいらだった声で、
「いや、外国のことなどわかり切っている。わが国が鎖国政策を続けて来たことで明白で
はないか」
 きっぱりと割り切った言い方である。続けて言おうとする辰之助を、福太郎は手で制し
て、
「それは違う」
 と、大きな顔に薄く微笑を浮かべる。
「鎖国以来、二百年の歳月が過ぎている。その間に、世界は急速に変わって来ている。そ
ういう事態を、われわれはオランダ国を通して多少とも知って来た。諸外国が無闇に侵略
的ではないことは、われわれだって理解しているはずだ」
 平素は口数の少ない福太郎だが、重い口調でしゃべり出すと、後には引かぬ強さがあっ
た。
 長八は、二人の会話を黙って聞いているだけだった。二人の意見はそれぞれもっともだ
と思った。が、どちらに加担するかがわからなかった。
 二人は尚も論じ合っていた。長八は、ぼんやりと、庫裡の横手に咲いている山茶花の淡
紅の花に眼を向けていた。
「おれには、そういう天下国家のことがわからないんだ」
 と、心の中でつぶやき続けていた。それはさびしい思いだった。
 突然、辰之助の声が大きく響いた。
「福さんの考えは甘い。そう甘く見るから、かえって外敵に侮られ侵されるのだ」
 すると、静かに、
「辰さんのように何でも疑ぐって考えるのもどうかな」
 と福太郎が言った。
 二人の議論は尽きたのであろうか、二人は声を合わせて笑った。長八も、二人の屈託な
い声につられて微笑した。
「長八さん、お前さんはどう思う」
 辰之助が長八の脇腹を突いた。
「おれか」
 と長八は言った。何の意見のないことを反芻していた。
「わかんないな」
 と、つぶやくように言った。
「しょうのないお人だ」
 辰之助が苦く笑って、福太郎を見た。福太郎が眼で笑った。
「長さんは慎重だからな」
 と福太郎が言った。
「福さんの考えは甘いかもしれないな」
 長八は、山茶花の方に顔を向けたまま、独り言のように言った。すると、
「そうだろう」
 辰之助は、我が意を得たような顔で福太郎を見やった。長八は、そういう辰之助の横顔
を見て、
「辰之助さんの考えは辛いな」
 と笑った。
「こいつ」
 辰之助が長八に拳を振り上げた。顔は笑っていた。長八は、拳を逃げるように、縁板か
ら庭に飛び降りた。山茶花の咲いている方へ歩いた。福太郎も辰之助も誘われるように山
茶花に近寄った。福太郎が、
「それはそうと、長さんは絵に熱中しているっていうじゃないか」
 と話し掛けた。
「うん、おれも聞いたぞ」
 辰之助が、すぐ相づちを打った。長八は仕方なしに微笑し、
「うん」
 とうなずいて見せた。
「絵なんぞ、よせよせ」
 辰之助がいきなり怒鳴った。
「無茶なことを言うな」
 福太郎が辰之助の肩を突いた。
 長八は山茶花の木の周りを歩き出した。歩きながら、誰にともなく言い出した。
「おれが天下国家を論じられるか。おれにはまだその力がないんだ」
 ちょっと立ちどまって、山茶花の落ちた花びらを一枚拾った。花びらを見ながら、言葉
を続けた。
「その代わり、絵の勉強をしようと思ったのだ。絵の勉強によって、人間らしい生き方を
したいと思っているのだ」
 福太郎と辰之助は、しばらく黙っていた。自分たちと全く違った考え方がそこにあった
ことを、少し戸まどいながら思っていた。やがて、福太郎がしんみりと言った。
「それでいいのだな。それが長さんの道かも知れないな」
 すると辰之助がむっつりと言った。
「絵なんぞ、何になる」
 辰之助には辰之助の生き方がある。長八はそう思って、返事の代わりに微笑した。こう
いう青年たちの心には、天保の大飢饉も、さして苦労ではないようだった。彼等には未来
が活力なのかも知れない。が、その悲惨な年は、いよいよ暮れが迫って一層深刻であった。
幸いにも甘藷や蕎麦の出来がよく、村人は何とか食いつないだが、さし迫った正月からは、
全くお先真っ暗であった。名主善六は、年も押し詰まった日、再び村人を集めて、残りの
二つの倉を開いて、掃くようにして米を配給した。
 年の暮れになると、毎日西風が吹いた。砂埃が白く家々を荒涼とさせた。家々は雨戸を
とざし、ひっそりと繕い物をしていた。この年、畳表は作れなかったのである。道ゆく人
も少なく、松原の向こうに、海は真っ白にしぶいていた。時折、牛原山で木を倒す音が、
風にまぎれて聞こえて来た。
 そんなある日、長八は実家の縁先で絵を描いていた。雨戸を一寸ばかりあけて、そこか
ら入る光で、一心に描いていた。姉のおたみは座敷の障子のかげで縫物をしていた。暗い
炉端で細々と焚火をしているのは、八十歳になった大叔母の小さな体だった。父母は名主
の雇い仕事で留守だった。
 雨戸の隙間が急に暗くなって、
「長さん」
 と小声で女の声がした。おむめが雨戸の隙にのぞいていた。
「おむめちゃん」
 長八は笑顔を向けた。外からおむめの白い手が、
「これ」
 と言って、紙包みを差し出した。
「戸棚を片付けていたら、出て来たので、長さんにと思って」
 はにかんだように、おむめが言った。
 長八は紙包みを手にした。中から障子紙が出て来た。
「ありがとうよ」
 と長八はおむめの顔に微笑した。
「おむめちゃん、お上がりよ」
 奧から姉のおたみが障子をあけて顔をのぞかせた。
「おたみちゃん、今日は」
 おむめは外から挨拶した。
「遊んで行きな」
 長八もうながした。
「うん」
 長八に言われると、おむめはうれしそうにうなずき、直ぐ戸口をこじあける音がして、
障子をあけて、おむめが入って来た。長八のそばに座って、散らかっている絵を見ていた。
 おむめは十六歳。すっかり娘らしくなり、桃割れ髪がよく似合った。親方に似て小肥り
で、明るい顔だちだった。そばに座ると、女のにおいがして、長八は何かとまどいを感じ
た。

                   D

 長八は、ふと描く手を止めた。おむめの肌が間近く甘くにおって手がとまどった。筆を
置いて、照れ隠しに、
「あー」
 とあくびをした。伸ばした腕がおむめのほつれ毛に触れて、長八は手をひっこめた。隙
間から射す光の中で、おむめの頬が桃色に映えていた。おむめは、
「風に吹かれて来たから」
 と、言いわけめいた言い方をして、ほつれ髪を撫でた。
 しばらくして、おむめが長八の耳元でささやいた。
「長さんにちょっと話したいことがあるんだけど」
 思い詰めたような眼だった。
「話?」
「ええ」
「どんな?」
「浜の方へ行ってみない?」
 何か秘密の話だなと、長八は思った。
「浜か」
 ためらうように言った。姉をはばかっているようだった。
「だって」
 とおむめはつぶやいた。
「大事な話だもん」
 おむめの言葉に、何か真剣なひびきがあった。長八はちらと姉の方を見た。姉はうつむ
いて針を運んでいた。
「じゃ、行こう」
 そう言うと、長八は直ぐ立ち上がった。黙って姉の前を通った。おむめが後から、
「御邪魔しました」
 と言いながら、おたみの前をよぎった。
 二人は西風の吹きつける道を歩いていた。直ぐ大橋を渡った。砂埃が二人の行く手をい
くつも渦を巻いた。橋を渡ると、竹囲いの砂畑が続く。その中にちらほらと人家がある。
どの家も雨戸をとざしてひっそりとしている。野良猫が一匹、二人の姿を見て、あわてて
竹囲いを潜って行った。
 海に近づくにつれて風は静かになる。海岸線に平行して防風林の松原が長く、そこだけ
が砂丘のように高くなっているのである。松原の向こうには、吼え立てているように、冬
の白波が猛っていた。
 松原の砂丘の西斜面の枯草に、二人は並んで腰を下ろした。ここは風もなく冬の日がほ
かほかと暖かかった。
「暖かいな」
 と長八はいきなりごろりと仰向けになって伸びをした。まぶしいような、雲のない空が
映った。眼を閉じた。おむめはその傍らに、ぼんやり牛原山の頂を見ていた。日のぬくも
りが二人を柔らかく包んだ。
「大事な話って、何だい?」
 長八が言った。ゆっくりと上体を起こした。そう言われると、おむめはためらうように
うつむいた。
「あのね」
 低い声で言った。どう話していいか、感情が先走って口ごもった。
「言えよ」
 長八は、それでも優しくうながした。やっと決心したように、
「金さんが」
 とおむめが言った。言って、一層心が波打ち、後の言葉が、出なかった。
「金さんが?」
 おうむ返しに長八は言った。思わず、
「金さんがどうしたのさ?」
 と繰り返した。うつむき加減のおむめの横顔を見た。おむめは涙ぐんでいるように見え
た。不安の影が胸をかすめた。
「なぜ黙っている?」
 じれったく問い返した。
「じゃあ、話すわ」
 と、おむめは思い切って顔を上げた。
 今朝のことであった。職人の金五郎がおめめの部屋に入って来て、おむめにうるさく言
い寄った。両親は隣村へ法事に出かけていて、家の中には二人切りだった。余りしつこい
ので、恐ろしくなって逃げ出して来たという話である。
「もう、とても我慢が出来ないわ」
 と、おむめが涙ぐんだ。
 長八は黙って聞いていたが、胸の中は煮えていた。
「前から何度もうるさくするのよ。おとっつあんに言ったけど、おとっつあんは、ただ困
ったものだと言うだけで、何にもしてくれないのよ」
 おむめは途方に暮れたように涙声になっていた。長八の気持ちはだんだん波打って来て
いた。
「金五郎の奴!」
 と、長八は思わず吐き捨てるように言った。金五郎の顔が憎々しく映った。 
 長八とおむめは、次第に好き合う仲になっていた。今では仁助夫婦も二人の仲を黙認し
ていた。むしろ、期待し、喜んでいるように見えた。仁助は、長八を幼時から知っていた。
弟子入りを積極的に奨めた。そうして、一人前の職人になった長八を見ると、自分の眼鏡
に狂いのなかったことを思わざるを得なかった。いや、仁助が予想した以上のものを感じ
たに違いない。それは同時に、仁助に明るい未来図を描かせるようになった。長八をおむ
めの夫とし、仁助の跡目を継がせる、………そういう幸福が静かに実現に近寄っている。
 しかし、金五郎はそういう事情を知っているはずである。知っているはずなのに、横車
を押す金五郎を、長八は憎々しく思った。おまけに、駿府の事件以後、金五郎には感情的
なものがあった。事ごとに長八をさげすむようになっていた。
 長八はさほどに思ってはいなかった。年齢的にも、金五郎は男盛りの二十九歳、長八は
まだ十八歳の若輩である。腕では金五郎に負けない自信を持っているが、仕事の上ではや
はり金五郎に遠慮し、一歩も二歩も譲っていた。口争いをすることを避けていた。
「それを、いいことにして」
 と、長八は今は思うのである。仕事のことはともかくとして、おむめのことに関しては
許すわけにいかないと思った。
「おむめちゃん」
 長八はおむめの顔に向いた。挑戦するように眼が光っていた。
「おれと夫婦約束しよう」
 そう言って、長八は体中が熱くなるのを感じた。
「夫婦約束?」
 おむめは突然のことで驚いた。が、直ぐうれしそうに微笑を浮かべた。
「ええ」
 と、はずかしく下を向いた。
「親方にもはっきりと言って置こう。金五郎の奴にも、はっきり言ってやる」
「ええ、それがいいわ」
 二人は手を握り合っていた。未来の幸福が二人の胸にほのかに暖かかった。
 やがて年が明けた。天保四年である。大飢饉で、正月はただ形ばかりの祝いごとしか出
来なかった。正月が過ぎると、突然名主の依田家の倉普請をすることになった。仁助一家
は急に春が来たように忙しくなった。去年の大凶作で倉が空っぽになったのを機会に、大
修理をするというのである。一つには、名主が考えた村民救済の事業でもあった。
 依田家の倉は、那賀川の河岸に沿って、五つ並んでいた。そのうちの三つの米倉を修理
するのである。
 仁助の家の職人や弟子たちが呼びもどされて、急ににぎやかになった。準備に忙しかっ
た。金五郎と長八の間のもつれも、忙しさのままに紛れた。
 いよいよ普請が始まった。朝早くから日暮れまで、依田家は村人や職人たちが忙しく働
いた。それが何日も続いた。長八は、夜はくたくたに疲れて眠った。もう、絵は描けなか
った。十日経ち二十日経った。倉は一つ一つ仕上がって、最後の一つになった。
 ある朝、長八は早く目覚めた。もうすっかり春めいた気配で、猫柳がふくらんで来た川
土堤を、長八はすがすがしい気持ちで歩いていた。何ということなしに、足が依田家の河
岸の方に向いていた。依田家の裏手の河岸は、そこだけ土堤がなく、倉から直ちに河岸へ、
そして川舟へと荷を運ぶのに都合よくしてある。長八は大橋の袂から川土堤を下っていた。
 もう後十日もすればすっかり出来上がる倉が直ぐ眼についた。長八は開いてある裏門か
ら依田家の庭に入った。倉の前に立った。明け方の光が、裏の面だけ明るく映っていた。
 ふと見るともなく、昨日下塗りしたばかりの腰壁に異様な傷を見つけ、近づいて見ると、
熊手のような物で掻き散らしてある。長八は驚いて、
「誰が?」
 と、口の中で言った。そして、こんな悪質ないたずらをするのは、金五郎ではないかと
思った。金五郎より外にはないと思った。が、それには何の証拠もない。
 長八は飛ぶようにして帰って、親方の仁助に報告した。しかし、金五郎の名は言えなか
った。
「誰かのいたずらだ」
 仁助にも、ある想像が浮かんだ。が、今、事を荒だてたくなかった。
「困ったことだ」
 と溜息をついたが、直ぐ、
「ま、辛抱しろ。みんなにも注意して置くから」
 と仁助は長八の気持ちをなだめるように言った。
 その後も険悪ないたずらがあった。すべて長八の仕事の邪魔をして、長八の進行を遅ら
せるようなことだった。が、長八はもう仁助には言わなかった。親方を余計に心配させて
はいけないと思った。自分が、その分だけ仕事を進めて行きさえすればいいのだと思った。
が、心の中では憤りがくすぶっていた。
 もう二、三日で、最後の倉も仕上がるという日、長八はいくらかほっとした気持ちで、
帰り支度をしていた。そこへ、依田家の娘のおらんがよちよちと歩み寄って来た。
「長、長」
 と、廻らぬ舌で長八を呼んだ。長八はおらんの髪を撫でながら、ふと去年生まれた妹と
引き比べた。
「まあ、こんな所にいたの」
 女中のおしげが、おらんの姿を見つけて走って来た。
「さあ、お家へおはいりよ」
 おしげはおらんを抱き上げた。そして、長八の方へ、
「長さん、お帰りかえ」
 と、愛想よく笑った。
「ああ」
 長八は道具を拭いていた。
「お茶が出来ているから、飲んでいって」
 おしげが親しげに言った。
 その時、金五郎が店の方から出て来た。長八とおしげはそれに気づかなかった。おしげ
は傍らで、長八の道具を片付け終わるのを待っているふうだった。片付けるのを見て、
「さ、長さん、行きましょう」
 と長八をうながした。
「ああ、ありがとう」
 長八はそう言って、道具を肩にして通用門の方へ歩き出した。その時、長八は金五郎が
近づいて来るのを見た。
「お茶を」
 おしげが、行き掛ける長八に声を掛けた。
「うん、でも」
 長八はそのまますたすたと歩いて行った。
「長、もうおしまいか。早いな」
 金五郎がすれ違いざまに言った。長八は返事もせずに歩いた。と、
「待て、長!」
 金五郎が後から呼び止めた。が、長八は足も止めず歩いて行った。すると、追い打ちす
るように、金五郎の声が背中に届いた。
「仕事場で、女といちゃつきゃがって」
 長八はそれを聞くと胸がむかっとした。が、こらえて歩いた。
「いちゃついたんじゃないよ」
 おしげが噛みつくように言った。
 それには相手にせず、金五郎は長八に挑戦するように、
「長、何とか言え」
 と怒鳴った。長八は感情を抑えるように立ち止まった。口からほとばしろうとする言葉
を飲んだ。
「何とか言え」
 金五郎の怒気を含んだ声が、直ぐ後に来ていた。
「………」
 長八は立ち止まったまま聞いた。
「言えないのか」
 そう言うと、金五郎は長八の前に廻った。
「………」
 長八は無言を守った。口を開くと怒りがほとばしりそうだった。
 突差に金五郎は長八の頬を打った。
「気をつけろ」
 金五郎はじろりと冷たく長八をにらんだ。そのまま後ろ姿を見せて、通用門を出て行っ
た。
 長八は道具を肩にした格好で、その場に立っていた。胸にも頭にも血がたぎっていた。
涙が頬を伝わった。金五郎の後ろ姿が通用門から消えると、長八はいきなり道具箱を地面
に放った。道具が散乱した。長八は見向きもしないで駈け出した。

                  E

 その夜、長八は仁助に呼ばれた。
 ………夕方、依田家の通用門を出て行く金五郎を、長八は我を忘れて追いかけた。長い
間こらえて来た自制心が、急にガラガラと崩れて、無念の激情が猛り狂った。金五郎に近
づくと、考え直す余裕もなかった。憤りの拳がいきなり金五郎の頭を打った。金五郎は「痛
い」と口走り、突差に振り向いて長八を見た。が、それも一瞬だった。隙も与えず、長八
はなぐりつけた。続けざまに頭といわず胸といわずなぐった。抵抗する金五郎ともつれ合
った。それも数秒間で、金五郎は長八を突き放し、物をも言わず逃げて行った。
 ………長八はそこに茫然と立っていた。逃げて行く金五郎の姿を、曇った眼で、見ると
もなく見ていた。と、逆流していた血潮が急に静かになって、理性がよみがえった。する
と、冷え冷えとした悔恨が胸を痛くしめつけた。
 ………金五郎は、その事件を仁助に告げたに違いない。理由はどうであろうと、その行
動は恥ずべきことだった。
「弁解の余地はない」と長八は思った。
 長八は覚悟を決めて、親方の部屋の障子をあけた。仁助は行灯の灯を傍らに座っていた。
「こっちへ来い」
 仁助の声は意外に静かだった。それだけにかえって緊張した。
 二人は膝をつき合わせて向かい合った。少しの間沈黙が続いた。二人の心は、別々に何
かをまさぐっているようだった。
 やがて、仁助は言った。
「今日のことだが」
 ぽつりとそこで切った。落ち着いた声だった。
「すみません」
 長八は外に言いようがなかった。外の言葉を挿むと嘘になるような気がした。
「おれは、お前を責める気はない」
 仁助は一層静かな口調だった。そう言われると、長八はかえって苦しい思いがした。黙
ってうなだれた。
「お前がどんなに辛抱していたか、おれにはよくわかっていた。今更、金五郎の前に手を
ついてあやまれなどとは言いやしない」
 長八には、そういう仁助の気持ちがよくわかった。が、それだけに、どういうことにな
るのか、仁助の心の奥がつかめなかった。
「申しわけありません」
 長八は膝を固くした。
「今度のことは、よくよくのことだ」
 仁助は独りごとのように言った。長八は改めて夕方の自分の無謀を思った。恥ずかしか
った。
 仁助はぽつりぽつりと話し出した。仁助は性来実直な人で、口下手だったようである。
「おれはいろいろ考えたのだが」
 そう言って膝を崩した。
「お前も楽になれ」
 膝を崩せという意味である。長八は、
「へえ」
 とだけ言って、固い膝を揃えていた。
「結局二人が一しょに居ることがお互いに傷つけ合うことになる」
 仁助は長八には構わず続けた。
「金五郎に出て行ってもらうつもりでいたのだが、こんなことになっては、かえってよく
ない。こうなっては、金五郎に出て行けとは言えない」
 長八はその通りだと思った。
 仁助はしばらく黙っていた。思考をまとめているようだった。
「それで」
 と、また言葉を切った。そして、改まったように、
「長八」
 と呼んだ。思わず長八が顔をあげた。その顔へ、仁助の真剣な眼がそそがれていた。
「お前、江戸へ行く気はないか」
 声は静かだった。が、長八には全く思いもかけぬ言葉だった。
「親方」
 思わず長八は叫ぶように言った。胸が波立つのを覚えた。
「驚いたか」
 仁助の顔は、元の静けさにもどった。
「驚いたろうが、おれは、考えに考えた末だのことだ」
と、口もとに微笑さえ浮かべた。
「お前もひと通りの左官の修業をして来た。もう、どこへ行っても一人前の職人で通れる。
しかし、おれは、もっとお前に腕を磨いてもらいたいと思ってもいた」
 長八の頭の中で、江戸という言葉が渦巻いていた。それが、仁助の話とどう結びつくの
か、まだ長八には飲み込めなかった。
「おれには、もう教えるものはない。お前はまだまだやれば出来るのに、ここでは、もう
修業することはない。今以上に腕を磨くには、江戸へ行って修業するしかない」
 仁助はそう言って、行灯の光の揺らぐのを見ていた。心なしか、さびしそうな影が浮い
ていた。
 長八にはまだ仁助の真意が飲み込めなかった。江戸など夢にも思ってはいなかった。宗
三郎が頭に浮かんだ。宗三郎のような名主の子であればともかく、貧乏百姓の子で左官職
人では、江戸は無用の都と思っていた。
「どうだ、長八、江戸へ行って来ないか」
 仁助はようやく本題に入った気がした。
「へえ」
 長八にはどう返事をしていいのかわからなかった。そんな様子を見守りながら、仁助は
言葉を足した。
「突然のことで、考えがまとまるまい。今直ぐ返事をしろというわけじゃあない。ようく
考えて返事をしてくれ」
 思いついたように、仁助は直ぐ話し続けた。
「三年、そうだ、三年辛抱して、三年経ったら帰って来い」
「三年?」
 長八はまた驚いたように、思わず口走った。どういう意味かわからないで、いたずらに
頭が混乱していた。
「三年修業して来るのだ」
 念を押すように仁助は言った。
「三年経てば、何もかも片付く」
 長八はその言葉を反芻した。が、何が三年なのか、何が片付くのかわからなかった。答
えようもなかった。問いただしようもなかった。仕方なく、長八はうなだれて考え込んで
いた。仁助はその姿を静かな眼で見ていた。もっと言いたいことがいくつもあった。が、
今ここで言うべきではないと、自分の胸を押さえていた。後のことは後になればわかるこ
とだ。今はこれ以上言わない方がいいと思っていた。
「いつでもいい。決心がついたら言って来い。だが、この話は誰にも言うなよ」
 と話をしめくくった。気がついたように、
「それからな、今度のようなことを二度としちゃあいけないぞ。いいな」
 と付け加えた。
 親方の部屋を出て、長八は裏庭に出た。部屋では、金五郎たちが長八のもどるのを待っ
ていると思った。仲間の誰にも会いたくなかった。
 薄い月夜だった。つぼみを持った桜の枝が微かに揺れていた。春だというのに、意外に
冷たい夜風だった。長八は裏木戸をあけて、川土堤に出た。しきりに考えていた。
 江戸へ修業に行くことは、確かに腕を磨くことになる。しかし、田舎育ちの職人がどう
して暮らして行けるか。田舎者にとっては、江戸は途方もない所であった。
 それよりも、三年という期限が気になる。
「三年経ったら帰って来い」と親方は言う。「三年経てば、何もかも片付く」という。一
体、それはどういうことなのだろうか。
 長八は、
「三年、三年」
 とつぶやきながら歩いた。考えた。川土堤の路をぼそぼそと歩いた。
 次第に、三年という意味が解けて来たような気がした。が、それは自分の都合のいい考
えのような気がして打ち消した。打ち消した後から、また同じようなことを考えていた。
 ………三年経てば、金五郎が出て行くだろう。そうなれば、争いも反目もなくなる。
 ………三年経てば、長八は二十二歳になる。江戸で磨きをかけた職人として、仁助の片
腕となって働ける年頃である。
 ………三年経てば、おむめは十九歳になる。結婚していい年齢である。(このことは重
大である。親方はここまで考えているのだろうか)
 歩きながら考え続けた。だんだん真意がわかって来たような気がした。
「それから」
 と、長八は心の中でつぶやいた。仁助の考えとは別に、長八自身にとって、三年という
期間は一つの意味のあることに気付いた。それは絵の勉強のことだった。江戸へ行きさえ
すれば、絵の勉強は思うままに出来そうな気がした。三年という歳月も、その欲求を満た
してくれるに違いないと思った。
 長八の心の中で、急に江戸が明るく見えて来た。江戸へ出て、と思う気持ちがちらと動
いた。長八は、川上へ川上へと夜露に濡れた草を踏んで歩いて行った。今更、金五郎と顔
を合わせたくない。金五郎たちが寝静まるまで歩いていようと思った。
 突然、長八は考えを飛躍させていた。
「江戸へ行くとして、いつ行くか」
 彼は突差に、
「今夜!」
 と思った。が、そう思う心の底から、心残りの影がよぎった。
 後から人の足音がした。振り返った。薄月夜の中に黒い影が近寄った。意外にもおむめ
だった。
「おむめちゃん」
 長八は声をあげた。おむめは息を弾ませていた。いきなり長八の胸に体を投げた。
「長さん」
 切ぱ詰まった声だった。すがりついた。直ぐすすり泣きが聞こえた。
「どうしたのさ」
 長八はおむめの肩を抱いた。
「おとっつあんの話を盗み聞きしたの」
 おむめはむせびながら言った。
「そうか」
 長八は胸がうずいた。
「おとっつあんは、長さんに江戸へ行けって言ったんだね」
「うん」
「それで、長さんは?」
「うん」
 長八はあいまいに返事をした。
「行くつもり?」
 おむめにそう言われると、長八はとまどった。黙っていた。
「ねえ」
 おむめが、長八の胸を押すように促した。長八は、やはりはっきりすべきだと思った。
「うん」
「行くつもり?」
念を押すようにおむめが言った。
「行くつもりだ」
 そう言ったが、言葉に力がなかった。
 と、おむめが急に長八の胸にしがみついて、
「私は、いや!」
 と叫んだ。泣きじゃくりながら、
「いや、いや」
 と身を揉んだ。長八はとまどった。
「おむめちゃん」
 と制した。が、おむめは一層高ぶって、
「私はいや、私はいや」
 と長八の体をゆさぶった。長八は途方に暮れた。
「おむめちゃん、よく聞いて」
 ようやく長八はなだめるように言った。
「親方はなあ、三年辛抱して来いって言うんだよ」
 すると、おむめは急に顔をあげた。
「三年?」
 と、不審そうにつぶやいた。
「うん、三年」
 長八は言葉をついだ。
「親方はいろいろ考えがあるらしい。三年経ったら、おれも帰るつもりだ」
「どういうこと?」
「三年経ったら、何もかもうまく解決するって、親方は言った」
「何もかも」
「うん、何もかも」
「そうかしら」
「うん、きっとそうなるよ。親方の言う通りに」
「そうかしら」
 おむめには、まだわからなかった。納得いかなかった。
「ね、三年待っておくれ。三年経ったらきっと帰って来る」
 長八は固い決心をつらぬくような熱心さで、おむめの同意を求めた。
「三年」
 そう言って、おむめは何かを思いめぐらせた。おむめの三年は、長いようであり、短い
ようであった。
「あたしは十九になるのね」
 わびしい思いが、おむめの言葉ににじんでいた。
「その時には、きっと」
 長八は言葉を切った。心はおむめにも伝わった。
「それまで、さびしいわ」
 おむめには、不安がないではなかった。
「三年なんて、直ぐ経ってしまうよ」
 長八は、もう江戸へ行くと決心していた。おむめに会えたことで未練が消えた。慰める
ように、
「今のままでは、皆が困るから」
 それは自分にも言い聞かせる言葉だった。
 おむめもようやく決心したように、
「いいわ」
 と静かに言った。おむめも自分に言い聞かせるようだった。
「三年経ったら、きっと帰って来てね」
 おむめは、長八の胸に顔を当てて、小声で言った。すると、急にさびしさがこみ上げて
来た。長八の胸にすがりつくようにして、それを堪えていた。長八も同じ思いに誘われて、
ひしとおむめの肩を抱いた。
 いつしか二人は潮のような熱情で、しっかり抱き合っていた。
「三年、きっとよ」
「うん、きっと」
 それだけが、二人の今の支えであった。誓い合うように、二人は力をこめて抱き合った。
 春の夜ももう夜明けに近い時刻だった。満月が西へ深く傾いていた。めっきり冷たい風
が流れていた。長八は、おむめと別れて、那賀川を渡った。遙かな江戸への旅立ちであっ
た。
 江戸には何が待っているのか、長八には皆目わからなかった。ただ、三年という歳月だ
けが彼の胸の中で希望の光を放っていた。ともかく、新しい出発であった。
 ここで一言注意したいことは、ここに描いたおむめとの恋の物語は、実は作者の虚構で
あるということで、すでに、述べたように、伝説では、おむめでなく、おこまという娘で
あり、しかし、伝説のおこまは、おむめに違いないという私の推定によって、小説風に潤
色したのである。しかも、依田家の普請も、金五郎との対立も、そのための作者の空想の
産物なのである。金五郎をひどく悪玉のようにしたのも作者の独断で、事実は至って平凡
な実直な男であったらしい。ただ、おむめ(伝説では、おこま)に対しては、並々ならぬ
執心を持っていたことは確かなようである。
 僅かに遺された伝聞は、まさに支離滅裂で、しかもその中に夾雑物まで入っている。そ
れを便りに、筋をたどり、そこに一人の人間像を描こうとするには、どうしてもある程度
の想像や憶測が必要で、そうでなければまとまらない。私が、時代や環境の影を追いなが
ら、長八その人の姿をこのように想像し推測したことは、私にしてみれば、どうしてもそ
うしなければならなかったのである。あえて、ここに虚構の弁解をして置く。
 伝説では、長八とおこまの恋について、次のような話がある。
 金五郎は長八に嫉妬の余り、仲間を語らって、おこまとあいびきしている長八を襲い、
そのために金五郎は負傷し、長八はかえって居づらくなって出奔したというのである。
 この話は、駿府での争いと同工で、同じような話は、長八が江戸にあってもいくつか出
て来る。江戸時代のことだから、そういう殺伐なことが日常事のようにあったのかも知れ
ないが、長八という人の性格から考えると、どうも適当しない。その上、江戸に出奔した
重要な鍵である『三年』という期間が、それでは無意味である。この『三年』は、後に大
きな意味を持ち、長八自身の人生を変えしめる重要な鍵で、これを無視した伝説は採るに
足らぬものと考える。恐らくは、金五郎との乱闘伝説は、昔風の講談的粉飾に過ぎず、極
めて幼稚な虚構と言うべきものであろう。

                                           第1章 終わり
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